TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

広島でかんがえる

さて、オリ・パラと同年、広島大会をむかえる。

 

広島大会をうけいれた際、私もメンバーとなっていたので、

内部の人となった。

 

今回は、大会テーマにむけて、資料提供をおこなった。

 

資料は、森さんの運動文化研究の資料をもとに、平和・民主主義と教育・体育のことを話した。

 

そこから、広島大会を平和や民主主義と集団づくりをつなぐ契機としよう、とよびかけてみた。

 

最終的には現地の人が構想する必要がある。だから、資料提供にとどまるしかないが、どうなるだろうか。

 

 

さて、そのこともあって、今回広島にいくときに、平和学習をおこなってみた。

そのことで実感したことをふりかえっておきたい。

 

似島

 似島の存在はしりあいからきいていた。この話をきいたことが、今回の平和学習につながっていったため、とても感謝したい。さて、似島は、もともと軍用地として指定され、若い兵士たちが訓練をする場所となっていたようだ。その後、海外進出した日本兵たちが、海外で病原菌をもらってきていないかを検査する検疫所となっていく。特に、日清戦争を契機にして第1検疫所が設立、その後、日露戦争を契機にして第2検疫所が設立されている。またこの時、中国に進出した際に、ドイツ人捕虜を数千人つかまえ、似島に700人程を収容する捕虜施設をつくったようだ。そして、似島が広島において重要な役割をもったのが、原爆投下後に、検査所として指定されたことである。1万人の人がおとずれたそうだ。その時、宇品にいた若い兵士たちが運営の一員として奮闘したようである。そして、広島にもどれたのは2000人程であった。その後、ドイツ人捕虜を収容していたことが、広島の生活文化に影響をあたえていく。ドイツ人兵士は、一般市民がおおく、様々な家業を生業としていた人たちであった。また、ジュネーブ条約に批准する前であるとともに、日本は外国人から新しい技術を学び、先進国へと発展していこうとしていた。そのため、捕虜の人たちから様々な生活技術を学ぶことになる。その一部であった、サッカーは、広島大学と関係をもちながら、普及していく。また、バームクーヘンも普及していったようだ。似島からは広島の生活文化に影響をあたえるものもうまれていった。

 こうして、似島は戦争から原爆被害までの歴史的経過を追体験することができる。原爆を戦争という地平でひろくとらえることをもとめてくる。同時に、島という立地条件ゆえに、戦争をめぐる様々な人々の想いが交錯した土地となった。その象徴が、「加害者と被害者がともにかかわった島」ということになる。この事実は、日本が原爆被害をうけた、「被害者」としてだけではなく、やはり戦争兵器をつくり、訓練をしてきた戦争の「加害者」であることを物語る。また、「加害者」といっても、訓練兵になることで「死を覚悟した場所」であると同時に、検疫所として海外進出からかえってきて「生を実感した場所」でもあった。さらに、戦争によって非人道的被害をあたえてしまった一方で、豊かな生活文化の交流(奪取行為だが)が生起していったことも物語っている。後者については、前提が捕虜であるため、「豊かなこと」と断定してしまうことはできないが、それにより新たな価値がうまれたこともまた、事実である。

 以上のことから、〈似島〉は原爆にとどまらない、戦争によってもたらされる特殊性をもっている島だとかんじた。〈似島〉がもつ平和や民主主義へのメッセージは、戦争や原爆をみつめてきた島であることからはっせられているのではないか。

 

原爆ドーム・資料館〉

 次の日、午前中に原爆ドーム・資料館へたちよった。午後からは広島支部で報告をする予定であったため、十分な時間がとれなかったが、ここははずせない。

 また、似島についてきいた人も、この場所をおとずれており、自分も原爆死没者慰霊碑の前にたちたいとおもっていた。

 そして、これは現地できいた話で、私もしらなかったことなのだが、原爆死没者慰霊碑をのぞくと、そこに原爆ドームがすっぽりかこわれる。ここに1つのメッセージがあるという。もともと原爆ドームを公園の中央にすえたかったが、道路や鉄道の関係、建築上の関係でできなかったようだ。そこで、公園の中央に慰霊碑をおき、そこを中心に左右対称の空間を構成している。つまり、公園の中央にある慰霊碑から原爆ドームをのぞきみることは、原爆ドームを中心にする、ということでもある。慰霊碑からみえる原爆ドームを中心に、平和や民主主義へのメッセージをかんがえていこうとする、この空間構成は見事である。

 原爆ドームや資料館を見ると、あらためて、平和や民主主義への願いが、戦没者の叫びや戦後トラウマで苦しんだ人たちの生活苦そのものであることをおもいしらされる。願いの発信元を自覚することができる。そして、そのことへの強い自覚を、やはり広島の人たちはもっている、それは外の人たちは現地にいく中でしか学べないことなのかもしれないとかんじた。

 また、原爆資料館はまだ整備中で一部のものしか閲覧できなかったが、そこであらたにしったことがある。それはアメリカを中心にした数名の学者が原爆投下時に、事前に原爆投下を知らせるべきだと委員会で提案書を提出していたこと、そして、それが議会で否決(無視?)されたことであった。この事実は耳にはしていたが、具体的な議論の様子は、はじめてしった。他にも、アメリカが、日本の戦争犯罪(毒ガス兵器の製造・使用、捕虜・民間人への非人道的行為等)を高等裁判所でさばかれることをもみけしたそうだ。反省せずにここまできてしまった部分があるのかもしれない。

 ここから、戦争というものがやはり、人の手によっておこなわれ、無残なものになっていったこと、それから、研究者の役割についてかんがえさせられた。そして、ここでも、戦争が加害者と被害者が交わる行為であることをかんじた。原爆投下は、戦争の悲惨さを強烈にうったえるが、それは「被害者」としてのみうけとってはいけないのだなとおもえた。

 

大久野島

 次の日、毒ガス兵器を製造した大久野島にいってきた。この島も、もともと軍用地化され、大砲が整備される時代と、その後、毒ガス兵器を製造する時代とにわかれる。毒ガス兵器は国際条約で禁止されていたことから、日本はこの島を地図から削除したそうだ。日本が使用した毒ガス兵器の8割はこの島で製造される。ここで製造された兵器がどのように使用されたのかはよくわからないようだ。ここで印象的だったことは、作業員は圧倒的に広島の人たちとなったことだ。広島という地の特殊性だ。この3日間の総括的な実感であったとおもうが、広島という地は、瀬戸内海に島々をもち、敵が侵入しづらく、軍用地として最適だった。呉が軍艦の製造をになったり、大久野島が毒ガス兵器製造をになったり、似島が訓練地で検疫所としての役割をになったりと、戦争とむすびついた土地であった。同時に、アメリカからは原爆の実験地として、あまり攻撃されなかった土地でもあった。そのため、遺構が数多くのこることにもなる。

 広島という地が、立地上、戦争を象徴する場となり、そこにすむ人たちをまきこんでいったこと、そのことは、自分も戦争被害の2世、3世となりうる存在であることを意味している。立地上、たまたまそこがえらばれたのだから。

 

 こうして、3日間の平和学習をひとまず、おえた。

 

①「原爆」という象徴から、「戦争」(加害者でもあり、被害者でもあること)をみつめること

②「戦争」が人々の人生(死と生と文化)を交差させる複雑さをもち、その土地ごとに特殊性をもった平和・民主主義へのメッセージがつくられること

③「戦争」が人の手によってなされたものであること(推進する声と制御する声とそれを阻止する声があったこと)

④「平和・民主主義への願い」は、死者の叫び・生存者の生活苦からなりたっていること

⑤広島がヒロシマとして世界へ普遍性をもつメッセージをつたえようとする背景には、やはり広島がもつ特殊な立地条件があったこと

 

こうした点が、今回私のまなびえたことだとおもう。

 

 平和や民主主義を(現代における)教育思想として構築する。

 

 これがいつの時代にももとめられる教育関係者にとって大切なことなのかもしれない。さて、どこまでできるか、やってみよう。

 

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