TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

「下請け論」をこえるとき?

以前、1年前か、東京支部大会に参加したときだったとおもうけれど、平石さんから「丹下の下請け論って、どういうことなのでしょうか」と質問されたことがある。

 

そのときに、あ、そうそう、自分も悩んだことある〜とこたえた。

 

運動文化を何かの手段にするのではなく、目的的にその価値を追求する中で、体育的人間形成をめざそうとした理論だったかとおもう。

 

でも、そもそも教育は、教材を手段化している、自己目的的に追求させるという手段である。

 

ここにど〜もふにおちないところがいつもあった。平石さんもそういうところにひかかっているとかんじた。

 

ただ、そこでおさえておくべきは、当時はエリートスポーツへ偏向していく時代であり、高度経済成長をむかえる中で、根性主義や欧米諸国においつけおいこせ原理がはたらいていた時代であったことだ。

 

下請けになるな、とは、①市民のためではなく、一部のエリートのための教育手段としてスポーツをあつかうことはやめよう、ということと、②運動文化の本質(喜び)を見定め、そこをこそ学ぶ中身にしていこう、運動文化の喜びを享受することで、人間的欲求がたかまっていくのだから、というメッセージであったかとおもう。

 

「手段化」することそれ自体を批判的にとらえることは、当時のスポーツ文化の未成熟さや、市民からはなれる「手段化」がはびこる当日の時代的な制約があったのではないか、と推察する。

 

今、おもうのは、本質を外さない、というメッセージの重要さをひきとりながらも、「手段化」を受容し、その上で、どのような「手段」とするのかを問うことの方が必要であるとおもう。

 

その典型的な例が、政治とスポーツだ。

これまで、政治とスポーツはかなり微妙なかたられかたをしてきたようにおもう。スポーツを手段化しない、という宣言は、スポーツの政治利用を批判する文脈でもかたられてきた。でも、オリンピックが象徴的であるように、スポーツは政治とともにあった。

 

だから、重要なのは、スポーツを平和と民主主義に寄与するものへとつくりかえていく政治をもとめていく時代認識が必要なんじゃないか。スポーツで平和と民主主義に寄与する、これも1つのスポーツをよいものにする行為なのではないだろうか。

 

かつてのスポーツ権利論にもとづく主体者像では、スポーツの行政請求権を重要な学力として位置づけてきた。まさにこの姿勢が必要なのではないか。

 

人は、スポーツそれ自体を目的的に追求する、同時に、その過程でえられる付加価値(健康、関係づくりなど)ももとめてきたはずだ。

 

走ることやプレーすることの爽快感や、ともに楽しみ競い合う世界をたのしんでいると同時に、コミュニティづくりや健康志向がその活動を支持してきたはずだ。

 

つまり、「手段論」と「目的論」は同時にあらわれるものであるとおもう。

 

私たちはスポーツを政治争いのために利用する、そういう「手段化」は批判する。一方で、スポーツを通してゆたかな社会をつくろうとするとりくみは、推奨していく。こういうスタンスがもとめられているとおもう。そこには、かなり厳しい分析力がもとめられるだろう。なんせ、これまであまりスポーツと政治についてかたってこなかったのだから。

 

実現しないでしょうが、夏大会でスポーツと政治分科会
なるものがあってもよいかもしれません。
特別講座なんかとか。

 

今、地域行政とむすびつきながら、市民スポーツが普及している。この状況をみたときに、市民と行政が手をとりながらも、よりよい市民文化を創造していく指針(鋭い分析の目)が必要となる。

 

「下請け論」をこえて、スポーツを手段として平和や民主主義を実現しようとするありかたも、視野にいれるようにしないといけないのではないか。

 

それほど、スポーツは多様な文脈で存在する事象となったのだ。スポーツで国際貢献、国際開発なんてのものある。今、現代スポーツがもとめるのは、よりよい手段化の方法(悪用されない方法)、ではないか。

 

※追記

 

・「下請け論」と「手段化」は同一視してはならないかも、とおもった。「下請け論」とは、「エリートスポーツを育てるための体育」とか「医療費削減のための体育」といった下請けを否定するものであることに力点があって、「手段化」の否定に力点がなかったのではないか、ここはもう1度、文献をみてみなければならないなぁ。

 

・ここでいいたかったのは、「手段論」を否定するあまり、スポーツと政治をきりはなして議論してきてしまったり、スポーツを通した平和や民主主義へ寄与することもスポーツをよりよいものへとつくりかえていく1つのあり方ととらえそこなってしまったりしてきたのではないか、ということだ。

 

・目的論だけでは、スポーツ・運動文化のゆたかさをとらえそこなうのではないか。そんな気がしている。