TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

よきものだった平等性がスポーツを破壊するか。

たのスポの評価特集をよんだ

 

この号はとてもわかりやすくて、大事なことが記述されている。

 

学生と一緒によみすすめてきたが、あらたな発見がおおい。

 

それで、特集の中にテクノロジーとスポーツをかたる論考が2つある。

 

1つは陸上運動で、スターターとテクノロジーの発展、トラックの発展がかたられ、1つは柔道の審判とテクノロジーの発展についてまとめられていた。

 

いずれも審判とテクノロジーをあつかっており、陸上においては、スターターと選手との阿吽の呼吸があり、スターターはただの計測者ではなくて、選手のパフォーマンスを発揮する役割や失敗したときなどにきもちをなだめる役割があるなど、人間であるべきだ、という主張がなされている。

 

相撲などもをみても、審判の位置となる行司の方は、のこったのこったといきをいをつけ、力士たちの勝負をもりあげているようにもおもえる。

 

しかし、だれかのリズムにあうものは、だれかのリズムにはあわない。

 

だれかの呼吸にあうものは、だれかの呼吸にあわない。

 

となるとやはり、公平性や平等性という観点から、人間が審判を実施することには制約がでてくることになる。

 

このままでは、人間が審判をするこがなくなる。

 

やはりここは、テクノロジーとのつきあいかたが課題となる。

 

おそらく、スポーツの世界は、テクノロジーの発展とそのつきあい方の整理のバランスがわるく、テクノロジーの発展にルール設定やテクノロジーの活用をめぐる境界線の設定などがおいついていない。

 

一方で、どんどんテクノロジーは変化していくわけで、そのために、柔道のように、誤審や不正疑惑が増加してくることになる。

 

こうしてかんがえると、次のことがおもいついた。

 

スポーツが「近代」をまとって、自由・自主・自治の精神をルールやプレースタイルに内在化させ、階級差をこえて対等平等に競争するものとして生成してきたが、その平等性や公平性が今、スポーツの構造変容をせまろうとしている、もっと言うと、スポーツの存在意義にうたがいをかけようとしている。

 

一見、平等や対等という理念はスポーツにおいて重要だが、その平等や対等がテクノロジーの視点からみると、スポーツを内側から破壊する効力をももっていたのだ。

 

これは、ドーピングや八百長なんかよりももっと深刻な問題ではないだろうか。

 

「近代」化するスポーツは、後近代となり、稲垣さんたちがえがくものとは別の方向へとつきすすんでいる。

 

そんな発見をさせてくれた、たのスポでした。