TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

矢田部さんの本、その3

矢田部さんの本、4冊目、いよいよ。

 

『日本人の座り方』、よみすすめてみたら、

 

字幅もひろく、ストーリーも明確で、とてもよみやすいものであった。

 

そして何より、ある史実に驚嘆してしまった。

 

え!?そうなの!?

 

 「正座」って、明治期における近代日本の推進政策の一貫で、礼法教育の一部にあった坐法を、学校教育のおいて「ただしいすわり方」として普及させられたものだったの!?

 

という驚嘆であった。

 

 森によって、近代日本の身体へとつくりかえていったことは有名な話ではあるが、その1つに「正座」があったとはおどろきである。

 

 つまり、「正座」って、国の教育政策によって「おしつけられた」ものであって、けっして市民の中で伝統的に尊重されてきた坐法ではない、ということであった。

 

 まぢぃ〜。

 

 完全に、私の中の「正座」概念がくずれていく。

 たしかに「ただしいすわり方」だなんて、そんな坐法の名称が一般化するのは不自然である。坐法は多様にあるのに、「ただしい」だなんて、そんな分類法が一般化されるのは異様である。

 

 そして、明治政府による「正座」推進によって、おおくの多様な市民文化の中で醸成されてきた坐法が衰退してしまったこともまた、重要な史実であるとおもう。いわゆる「正座」はかつて「端坐」などとよばれるものであった。

 

 これを告発している矢田部さん、すごい。

 

 そして、この本は、2011年のものである。そんなに前から告発されていたなんて。

 

 矢田部さんのワークショップを教育民間研が共催で開催するのだが、これは必然であるとおもった。このワークショップを企画された方々の熱意は相当なものなのだろうなと実感した。

 

 日本での多様な坐法がどのように発生してきていたのか、なぜ日本人の伝統的な坐法として「正座」が位置づけられ、それが普及していったのかは、本書にゆずりたい。一応細くしておくと、「正座」の普及は、江戸時代の政策ともむすびついており、明治政府の推進政策を受容する環境整備が下地としてできあがっていたことはあげておく。

 

 いずれにしても、こうした史実をふまえると、学校教育にたずさわるものがいかに無自覚に政府によってつくられた「伝統」を教育内容としているのかにきづかされる。

 

 近代化がすすみ、戦後からいく時かへようとする今でも、かつての軍隊教育や西洋化政策などのなごりが学校教育の中にのこったままにされている。

 

 しかしそれによって、実は、教師が「文化の地崩れ現象」に一役かってしまっていることも意味している。

 

「「坐」の深層には、日本人の精神生活と社会生活とを根本のところで支えている役割が根づいていた。そう考えると、現代における床坐の衰退は、永い永い年月をかけて身体化された文化資本が大きく崩壊していく「文化の地崩れ現象」のように私には見える」

 

なるほど。

 

こうした現象をふまえると、前回も記述したが、あらためて、スポーツへと偏向していった学校体育をあらため、身体文化を基盤とした体育実践のカリキュラム化が課題になってくるとおもわれる。

 

 立・坐・歩の身体技法を学習を展開する道を模索していきたい。

 

 そのヒントとして、本書にも、現代にも必要な基本10の坐法が紹介されている。参考にしていきたい。

 

最後に、まとめの部分の引用をしておく。

 

 「端坐を正しい坐と定め、庶民一般に普及させたのは武士や軍人たちであった。かつての「つくばう」「かしこまる」という名称の通り、封建君主に対する服従を示す身体的な記号として、近世初期の武家儀礼からこの作法は広まりはじめる。明治期の学校教育によって「正座」という言葉が定着した背景にも、弓馬術の伝統を引く小笠原流礼法の強い牽引があり、その後の礼法教育は富国強兵を旨とする硬直した軍隊の思想へと絡め取られていくことになる。そこに見られる坐の思想は、日本文化の本来の姿からは大きく逸れ、たとえば中世の茶人が重んじた「崩しの自由」という美学などは遠く忘れ去られてゆく。くり返しになるが「近世以前の日本人は正座などしてはいなかった」。」

 

さて、4冊をよんで、矢田部さんの仕事の断片を理解したところで、

研究会の位置づけや案内を作成しよう。

 

これはおもしろいなぁ。

 

ぜひとも、矢田部さんの研究会とその後も、まなびになる機会にしたい。

 

とおもったら、もう1つ、文献をよみわすれていた。

 

ということで、『たの・スポ』2016、1・2月号をよんでみた。

 

矢田部さんの「体育坐りとはからだにとってどんな坐り方か」というタイトルの論考だ。

 

今度の研究会は、体育坐りを問い直すものとなるので、この論考はある意味、案内を作成する上ではメインの参考資料となる。

 

それで、早速、

 

>体育坐りとは、「体育の授業における「正しい坐り方」として「正坐化」しているといってまちがいでない」ものだと主張されている。

 

こちらも、竹内さんの著書や沢野さんの卒論をひもとき、集団行動の手引きの中で、昭和40年に「地面に腰を下ろして話を聞く姿勢」として体育坐りが提起され、普及していったことが契機となっていることが記述されている。

 

 いわゆる、規律的な行動訓練の手段として、位置づけられていったものだった。

 

 この体育坐りの問題性としては、どうも子どもたちを統制しようとする指導内容として教師が位置づけてしまっているかどうか、という点にありそうだ。

 

 つまり、体育坐りは、その姿勢を保持することができる時間は、5、6分程であり、「お腹の前に膝を抱え込む姿勢は、やはり長時間になると内臓を圧迫し続けることになるし、地面から坐骨にかかるストレスにかんしては如何ともしがたい」と「腹部や腰にかかる負担は大きい」、そのため、体格が大きい子にとっては決して楽な姿勢ではない。しかし、「膝や足首への負担を解放して坐るという意味では、体育坐りにも一定の利点がないわけではない」のである。

 

 また、体育坐りは、一般的には、「先生の話を聞くときに、席を移動しないことや、手あそびをしないこと、5分10分の間、動かないで自分の姿勢を保っていられること」ができ、指導内容として、そのこと自体が問題があるというわけではなさそうである。

 

 となると、この体育坐りを、長時間強制したり、この坐法のみを強制してしまうことが問題になってくる。すなわちそれは、教師が体育坐りを管理の手段としてのみその価値を把握してしまい、他の坐法や子どもたちの自然な坐り方への探求をすててしまうことが罪なことであり、矢田部さんがいう、「現場の教師一人一人が、自身の担う「自由」に対する責任を重く受け止めるべき(で)あるように思う」(括弧内は筆者)ということになる。

 

であるならば、私たちはどんな坐法を指導していくべきか、矢田部さんは論考の中でしっかりとその道筋をしめしている。

 

それは、それぞれの坐法のメリット・デメリットやそのメリット・デメリットがなりたつ身体的条件も加味しながら、坐法を指導していくこと、また、坐法を獲得するための身体能力を養っていくことを強調している。

 

この中身は、ぜみ本書をてにとってもらいたい。

 

立・坐・歩を系統的に学習させて、日常を生きる身体を耕す。これが体育の身体文化領域でもとめられる目標像なのかもしれない。

 

さて、ようやくこれで案内をまとめられそうだ。

 

ん〜〜〜幅がひろいなぁ。

 

 

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国立博物館で購入した。極小グソクムシの完成版。大変だった・・・。

東京の文化性のたかさを最近、実感する。