TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

矢田部さんの本

支部活動で矢田部さんの研究会に参加することになったため、著書を4冊購入し、まずは『坐の文明論』をよんでみた。

 

 

ん〜これが、おもしろかった。

 

文体もよみよすくていいですね。

 

さて、今回の支部のテーマは「今、東京から」という副題がついている。

 

このテーマにひきよせるならば、子どものからだの実態から、どんな「今、東京」がみえてくるのか、ということが検討課題となってくる。

 

このあたりをイメージしながら、ひっかかったことをメモしておく。

 

矢田部さんの本で興味ぶかいとおもった点は次のこと。

 

1)現代社会においては、生活の欧米化とともに椅子が普及し、「人類が太古の昔から培ってきた床坐の文化が、次々に消滅していくことへの危機感」があること。それはすなわち、現代社会の中で喪失していく身体技法(技術)がある、ということだ。

 

 かねてより、日本は農耕民族であり、高床式の住居であり、靴をぬいだ生活を中心としていた。さらに、畳上で生活をしていたこともあり、椅子が普及せずに、床坐が普及し、それゆえに、ながくすわるための坐の身体技法がそなわっていた。

 

 これに対して、西洋文化流入し(明治期の政府による改革によって市民の文化がすてさられてしまったともいえる)、椅子座が中心の生活となる。そして、関節がかたまり、柔軟性がなくなり、背腰に負担がかかり、障害をもつケースもでてきている。すなわち「欧米型の生活様式は、経済的な豊かさと引き換えに、古来の文化様式に戻れない身体をつくり上げていく」という。

 

 こうした実態にたいして矢田部さんは、坐の文明史をたどりながら、東洋人が生活文化として形成してきた身体技法の価値を再発見し、自然体のからだ(坐姿勢)をみにつけていく(文化資本)ことをめざそうとしている。

 

2)その過程で、本書においては、軍隊教育のなごりや自己の外の世界へとむかうスポーツの世界へ偏重してきたわが国における学校体育の問題性を主張している。

 

 かつて中村も、西洋のスポーツをあつかうなら、日本のスポーツとしてなぜもっと日本泳法をクローズアップしないのか、と問題提起をしていた。戦後の日本はあまりにも西洋文化を無批判に学校体育に導入してきた経緯がある。

 

 何も学校体育が背景とする文化基盤はスポーツに限定されない。そのことをかんがえると、東洋の身体技法が1つの学習対象として十分になりうるのだ。

 

 「学校教育の指導要領や経済活動の方針が、生産的な「外なる身体」へと過剰に進んでいくときに、「内なる身体」を補完するための瞑想的な素養が、同じバランスで必要とされるようになるのは、むしろ自明のことである」。

 

 こうして、西洋偏重化してきた日本の学校体育を再考する契機にもなる書物であった。

 

3)また、矢田部さんはヒューズの研究の背後にあるおもいに着目し、「体育の授業では画一化されたひとつの姿勢を教師から強要され、その軍隊のように硬直した指導法に対する強い違和感が文体からも滲み出ている」「医者や教師の間で信じられている「正しい姿勢」が、いかに了見の狭い見方であるのかを問い直してもいる」と分析している。

 

 そして、自身も学校教育の椅子に着目し、学校椅子の形が、「お金をかけないという意味での経済性と、乱暴に扱っても壊れない耐久性を重視した結果」、平面型の背もたれの椅子となっており、「心地よさ」という意味での「身体性」とは真逆の極みにあるのではないか、と分析している。

 

 となると、①その他に、子どもたちの坐の身体能力や、からだのゆがみを生起させてしまっている学校教育活動はどのようなものがあるのか、②現在の子どものからだのゆがみやおかしさは、どのようなものがみられるのか、③それが①とどう関係がありそうか、ということを現場の方々と交流してみたいとおもう。

 

 また、④では、どういう「坐の身体能力」をどのように子どもたちに「からだそだて」として指導していくとよいのか、学校体育に導入する方策は何か、ここをつめていく必要がある。

 

3)その他、こまかい点では次の2つがきになった。

 

①矢田部さんの「文化」分析

 王族を中心に発展した統治者の椅子は、「権力の象徴」をもち、装飾などがちりばめられるなど、「身体性」の分析は不十分となっていた。

 しかし、矢田部さんは、統治者の椅子が、「人民を支配するための政治的要素ばかりではなく、人間の身体をストレスなく支えるための「心地よさの論理」が共存しているものも多数存在する」ことを主張し、「構造を具体的に吟味することなしに、「権力の象徴」ということだけで伝統様式を片付けてしまうとしたら、それは数千年にわたって探求されてきた「座り心地の論理」という宝の山にむかって、眼を瞑ることと等しい」といいきる。

 この視点がおもしろかった。文化というものを、人々の営みとしてとらえかえしており、そのことがまさに「文化」の視座になっているのではないかとかんじた。スポーツの問題でも同様に「文化」としてみるときに、一見すてさられてしまいそうな事象を、人々の営みの歴史としてとらえかえすことができるような可能性をかんじた。

 そのことは最後の話ともつうずる。人民を効率的に統治するための言語で事象を区分するのではなく、身体(自然)的な感覚をふくんだ言語で事象を区分していくことがもとめられているのかもしれない。

 

②「文化」概念をめぐる記述

ブルデュー文化資本の分類>

 ・客体化された文化資本

 ・正当な能力を保証する制度化された文化資本

 ・身体化された文化資本

 →単に文化情報を学ぶのではなく、「文化を身につけること」を人間の条件とした。

<矢田部論>

 「文化」という日本語を成立させる原理的なはたらき(属性)

 ・反復性

 ・再現性

 ・集合性

  これらをそなえた人間の営みが、おおよそ「文化」という言葉の範疇になる。

 

4)最後に、本書で紹介されている、初歩的な床坐に必要な身体能力をやしなうストレッチ(?)は、準備運動でやってみようかな、とおもった。

 

ということで、のこりの本をよんでみよう。

 

最後に、研究の方針をたてなければ・・・。

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由比ヶ浜、いいとこでした〜。はばたく鳥みたいな雲。と鳥。