TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

中村の著書をよんで

スポーツの比較文化学をよんでいる。

 

それで、この本をよむと中村のスポーツへの発想がよくみえてくるなと、勉強になってくる。

 

おもしろいなとおもったのは、中村が日本の運動文化の中に近代を克服するような思想がふくまれていないか、という視点をもっていることだ。

 

近代スポーツの「素直な受容」がおおい日本では、近代化する過程で、保存会に運動文化をとじこめ、発展させてきた。

 

※ちなみに、ソフトボールソフトテニスなどは「素直でない受容」に該当するのではないか、ということや、精神的自由の境地が戦時下で鍛錬主義へと変容していき、野球を代表として普及していった様相も「素直でない受容」に該当するのではないか、という疑問はある。もちろん、アメフトのように明確に別物へと変革したわけではない、という点からすると、納得はできる。だが、アメリカでもきっとラグビーはやられているはずで、「素直でない受容」と「素直な受容」は一応併存関係にあり、程度問題なのかな?ともおもった。

 

近代化を回避するその姿勢にあらわれているように、近代を克服する思想が何かあるのではないか、とみているのだ。

 

中村がなぜ日本の文化的独自性にむかったのか、その一端がみえてすこしすっきりした。

 

また、比較文化学へのつよいおもいとして、自国と他国の文化を理解しあうことができれば、スポーツによる、スポーツの平和が前進するとかんがえているようだ。

 

今回の要領も「スポーツをとおした共生社会の実現」を目標にしているが、

であるならば、文化としてのスポーツという見方に依拠し、中村が主張

するように、イギリススポーツ、アメリカスポーツ、日本の運動文化、

といったように、教材の解釈をかえ、指導内容を文化的な特性もふくむ

ものとして位置づけていくことが必要になるだろう。

ただ「みんなちがって、みんないい」ではなく、その上に、

相手を理解した上で、承認しあう関係をつくることがめざされていくべきだ。

 

その方が現代にあっている。

 

それと、やってみたいなとおもうことは、中村論から出発して、その後、現代スポーツの分析をすることだ。なんとなくだが、ゆるスポーツは勝敗を不確定にすることで、弱者を大切にし、みんながスポーツをたのしめる空間を創造しようとしている。そしてそのことは、中村がスポーツの風土で分析するように、政治意識を排除して精神的自由の境地をきわめ、「勝敗(敗者)の美学」をみいだしていった日本の風土との関係があるようにおもわれる。「近代」を批判する視点をもつ点においても、類似するようにおもう。同時に、現在、地域行政と連携して産業的に展開される多様な地域スポーツについても、何かつながるものがあるかもしれない。こうした現代日本のスポーツ展開を分析する中で、まさに日本のスポーツ風土(文化的独自性)がみえてくる、かもしれない。

 

とはいえ、それを考察する力量があるか、、。うーん、むずかしいなぁ。

 

 

さてさて、スポーツの比較文化学の著書には、中村の文化の伝播・普及をめぐる問題意識が順をおってわかるように、論考が配置されている。良書だなとおもう。

 

編者たちの力量によるものだろう。

 

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新宿でみつけた、スペインバルと高知の混交料理だそうな。

うーん、残念ながらこれを分析するほどの力はない。