TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

研究者が教師の生きがいにとって弊害とならないためには?

 

ときどき、かんがえる。

 

 

ライフ・ワーク・バランスをどうかんがえるのか。

 

 

それは、教師にたいする研究者の役割をどのように把握するのかにも関係してくる。

 

 

かつて、授業研究をしたときに、「次はどうしたらいいですか?」と実践者に何度か質問をされたことがある。

 

そのときは、「それは実践者が最後はきめることで、あくまで参考としてきいてもらいたい」といって、いくつかコメントしていた。

 

あらためてかんがえると、あのときの状況は、「教師の主体性を奪取してしまった」状態であった。

 

意見をきくとしても、参考意見をききたいのか、こたえをもとめているのか、この違いはとてもおおきい。

 

以前、教師は、子どもたちの発達やゆたかな生活を願っていて、そこによりそうことがまず、研究者にとって必要な素質なんだとブログにかいた(とおもう)。

 

それはつまり、①「実践者の学びを支援すること」であろうし、協議の場では、②「教師の願いの柱によりそって、実践をみつめ、コメントをしていくこと」を大切にする、ということ。

 

リードしすぎると、「教師の主体性をうばう」から。

 

でも、どこかで、でなきゃいけないとき、でられる人のときは、積極的にオピニオンリーダーにならなければならない。

 

この自覚は必要だ。

 

だから、「教師の学びを支援すること、教師の願いの実現にむけて支援すること」と「オピニオンリーダーになる」ことは緊張関係において把握しておく必要がある。

 

あと、もう1つ、なやましいことがある。

 

それは、これだけ多忙な社会である。

 

世界では、職員室がなくて、授業だけに教師はくる学校はたくさんある。

 

つまり、「願い」をベースにして教育実践の創造を支援していくと、ときにそれは、「働きすぎ」の実態をまねく要因になる可能性がある。

 

研究者は、一定の成果もださなければならない。

 

利害関係もときに発生する。

 

そうなると、教師を働かせすぎにさせてしまうことが危惧されるのだ。

 

よい授業はよい学校からうまれる。じゃあ、その学校づくりをどうしていくか、なんてかんがえていくと、ますます時間外労働がふえてくる。

 

研究者が支援するほど、授業研究にのめりこむこともある(そうならない場合もある)。

 

うーん、こまった。

 

研究者が教師に対する役割とはどうあるべきか。

 

それは、「労働」のありかたとともにセットでかんがえないといけないなぁ。

 

だから、「教師の生活」と「教師の労働の喜び」の関係を、どこかでみすえていないといけない、ということなのかな。

 

ひとまず、そんなところで、結論づけておこう。

 

研究者が教師の生きがいにとって弊害とならないためには、

 

(1)「教師の学びを支援すること、教師の願いの実現にむけて支援すること」と「オピニオンリーダーになる」ことは緊張関係において把握すると同時に、

 

(2)「教師の生活」と「教師の労働の喜び」の関係をみすえて、働きかける度合いを調整していく、

 

この2点をあたまにいれておこう。低成長、成熟社会へと発展する、こうしたことを念頭におきながら・・・。

 

とはいえ、すぐには「じゃあ、どうするの?」という点はみえてこないだろう。

現実は、どうしたらよいのか、まだ自分もわからない。

 

なんてったって、まず自分が安定していないから〜〜(悲)

現実は余裕のない社会だし、指針をみつけられる道のりは、きびしいですね。