TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

教授ー学習についての表現は、いとなみがみえる表現がいいのかも

11月に評価についての学習会を開催する。

 

それで、どんな学習の内容にするのかをかんがえている。

 

で、1つは、評価のおとし穴を契機にして、「評価」概念のありようをさぐるのがよいのかも。

 

村越(1982)さんは、評価のおとし穴が次の点にあらわれると指摘している。

 

   ①序列主義的評価観

   ②固定的能力評価観

   ③学力偏重評価観

 

①は学習の到達度を評価しようとするあまり、序列化させてしまう評価のみかた。

②は学習の到達度を評価する際に、評価をすることが目的化して、子どもの能力を固定的にみてしまう評価のみかた。

③は何ができるようになったのか、という学力形成の観点だけしか評価しないために、子どもたちの内面の世界の変容がみれなくなってしまう評価のみかた。

 

こうした評価のおとし穴を批判的にみて、そうではなくて、子どもの発達を願い、可能性をひきだす(子どもを励ます)評価になるように、評価のみかたを変容させよう、と提起していくことができそう。

 

それと、「評価」を到達度評価をイメージするだけではなく、概念の拡張をねらってみる。

 

たとえば、体育の場合、「評価」するといっても、次のような活動場面がありそう。

 

 ・「評価」する=子どもの運動の実態、課題、課題解決の方法を分析する

 ・「評価」する=教師の指導に対しての、子どもの反応(結果)を分析する

 ・「評価」する=子どもの学習活動を励ます(成果を承認・賞賛する)

 ・「評価」する=子どもの学習の到達点を確定する。

 

 だから、確かに成績をつけるときの「到達度の評価」という観点がありつつも、基本的には、続(1973)さんのいう「目標追求活動」に対して「調整活動のためのフィードバック情報を提供する」ものだ、という観点を大切にしていきたい。

 

つまり、評価は、子どもの発達を願って、次にどのような働きかけをすればよいのかを考えるためのもの、というみかたに。

 

 そんな展開がよいのではないか。

 

そして、ここでおもったのは、続(1973)の提起を活用して、私たちは「評価」は「フィードバック情報をえるんだ」と考えるのもいいけれど、

 

「評価とは、教師が子どもの発達を願って、次の働きかけを考えるための子どもの学習活動に対する解釈である」

 

というようにいいかえた方が、なんだかいいのではないか、と気がしている。

 

みそは、「教師が子どもの発達を願って」というところ。

 

教育が子どもの発達や学習権を保障する機会であるという前提を崩さないように表現してみた。

 

こうして「教授ー学習についての表現は、いとなみがみえる表現がいいのかも」とおもったのであーるある。

 

 

今度の学習会でも、そういう表現で、みなさんと合意がとれたらよいなぁとおもったのでした。