TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

4月1日の朝「なくなる」ことのイメージ。

今日はひさしぶりにすがすがしい朝。
 
天気も雲の間から日がさして、ややいい。
 
というのも、この4月からようやく生活が安定しそうなのです。
 
 
そして、もう1つ、死に対するこれまでの向き合い方が変化しました。
 
 
これまで毎夜、1人でいると恐怖感におそわれていましたが、
 
4月1日の朝もやはり恐怖感を感じたときに、ふと、「なくなること」がイメージできました。
 
これまで変に宇宙のこととか、地球がなくなったらとか考えていたけれど、
 
それはちがう。自分は「なくなっている」のだから、もう何もかも関係なくなる。
 
ここが大事。
 
ずっと「無」、何とも「関係のない」状態。ず〜っと眠っている感じ。周囲で何がおころうと、何もない状態でありつづける。
 
今までも「無」とかを想像していても、「無」という状態を想像し、恐怖感しかなかった。
 
しかしそれは、「無」の実態をイメージしようとしていたからだと思う。
 
どこかで「無」の意識がどこにいくのか?みたいなことを想像していたと思う。
 
こたえは周囲に何がおころうと何もおこらないのだ。この世界から空間がきえても、何もおこらない。私の意識はなくなりつづける、なくなったまま。
 
朝寝ぼけながら、というのがよかったのだろう、意識が「なくなっている、なくなる」イメージをもったときは、まったく違和感なくうけとめられた。
 
何とも関係をもたなくなる状態、意識がうしなわれつづける状態、そう考えたら、うけとめられるようなきがする。
 
自分がつくった「死」という概念にとらわれていたきがする。
 
こうなってくると考えるのは、至極当然のこと。
 
今、この世界に自分が何を残すことができるのか、そのために何をつくっていくのか。
 
よりよい生活の連鎖をうみだすために、何をするか。
 
昨日(3月31日)、たまたま自分の仕事を活用しているデータにであったのも安心につながった。こうして続いていくんだな、と。
 
パスワードをわすれて掲載する日がずれてしまったが、節目となる今日4月1日にそのことにおもいいたったのは、自分にとって転機になることなのだとおもう。
 
大学生のころ、多湖さんに相談したな。何人かに涙しながらうったえたこともある。そんな中で、どうなるのか「わからない」というのが1つの到達点になっていた。
 
つまり、考えないことがこたえだった。
 
でも今回は少しちがう。ようやくむきあえそう。というか、こわいものでなくなりそう。
 
8年越しに、こたえがでたかな。
 
これからは、すこしは明るい日々がすごせるかな。