TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

スポーツと能力観について

広田さんの『教育は何をなすべきか』をよんだ。

 

きっかけは近年の先進諸国における資質能力の育成をめざす動向をしらべていたときに、引用されていたものである。

 

大きな本なので、きになったところからよんでみた。

 

まずよんだのは終章の「ポスト震災の教育をどう考えるか」である。

 

これまでOECDのキー・コンピテンシーをしらべているときに、日本の受容の仕方がすごくきになった。ほとんどが「複雑な社会に対応する」という形式文のみで目標論を語り、もともとデセコプロジェクトがすえる地球規模の問題にたちむかうという共通基盤をかくしてしまい、結局はグローバル競争を勝ち抜く人材の育成にむかう余地を多く残しているのだ。

 

そしていつものように方法論の部分だけ強烈に受容していく。

 

広田さんは本来むかうべき姿を丁寧に論じていて、ほとんど共感的によめた。

 

同時に、考えさせられるところもあった。たとえば、震災という例外状態の中で教育論の変革を性急に強調することは弊害をもたらすという点だ。

 

あわよくば「地域べったりで伝統・地域文化のおしつけ教育」になっていったり、無理の多い防災教育をしいられたり、「絆」としょうして道徳心をおしつける教育となったり、そんな可能性も十分にある。自分も転換をしなければと焦燥感にかられていたことを反省した。

 

そうではなく、教育のむかう先をどういうものにするのか、じっくりと腰をすえた議論をしなくてはならないのだ。

 

そしてそのヒントになるのが、地球規模の問題をかかえた低成長時代への移行にともなう能動的市民の育成という視点である。

 

その改革の方向性をさししめしている本書は、自分にとってひとつの指針になるなとおもった。何度かよみなおしてまた感想をまとめたいとおもう。

 

そして広田さんの研究姿勢の転換もまなびたい。

 

「小さなテーマの歴史研究に没頭していたら、後の世代の人たちに対する責任放棄になってしまうのではないか」と考え、研究計画の軌道修正をして、目の前の具体的な教育改革論と向き合って、その是非を考えたり、論じたりするようになった。(あとがきより)

 

次によんだのが「能力観」について論じた第2、3章である。

 

なんでここをよんだかというと、最近勝敗観と能力観の関係についてかんがえたことがあったからである。

 

広田さんは能力にもとづく選抜の曖昧さと恣意性を指摘するとともに、生まれつきの能力差に応じた教育の問題点(虚構性)をとりあげている。

 

つまり、「第一に、生まれつきの能力と環境要因とは区別できないのだから。第二に、一般的命題としての遺伝の規定力は論じられても、個別の子どもに対して遺伝の規定力の大きさを言明することはできないのだから。「この子は生来の能力が高い」という言明は、常に証明を欠いた言明にすぎない。第三に、学校における文化した社会化は、予言の自己成就のように、最初の「能力が高い」と決めつけた子どもを高い能力にする仕組みになってしまう。」ということ。

 

さて、よんでみてきづいたのは、広田さんがここであつかう能力観は制度レベルの問題をあつかっているということ。

 

教育において「能力」を固定的にみるのか、流動的にみるのか、その背景には「遺伝・環境説」をどう位置づけるのか、という具合に。

 

なので、スポーツにあてはめるときはプレイ面というよりも制度レベルの話として考えられる。

 

で、かんがえたのは、障碍者スポーツの普及にみられるようにスポーツに多様性がうまれることは、スポーツへの参与者(アクセス)の多様性へとつながるわけで、よいことだと判断できる一方で、多様性がつながることで能力を固定的にみた「参加できるスポーツの限定化」がうまれかねないということである。

 

たとえば、「あなたは〜〜ができて、〜〜〜ができないから、この種目に適しているわね」という「種目特性と(遺伝的)固定的能力観のすりあわせ」が早期におこなわれる、といったものである。

 

障碍者スポーツでは様々なルールや道具の工夫によって、一見困難にみえる状況においても能力発揮を保障していく仕組みをなんとかつくりだす。しかし、スポーツが多様化すると「むいていない」という一言でアクセスが制限される可能性があるのだ。

 

身長が高いからバスケット、あるいはバレーボールね、ということはもちろん想定されるわけであるけれど、「固定的な能力観」とセットにされているときは選択権をうばうどころかスポーツにとってのぞましいことではない。

 

このことをふまえ、スポーツの民主的な変革主体を育成することを志向したスポーツ実践においては次の能力観を私たちはそだてていかなければらないのだなとおもう。

 

スポーツにおける能力は(1)発達可能性と、(2)発揮可能性を、だれもがもつ。

 

(1)目の前の個人の能力は遺伝か環境か区別をつけることはできないわけで、また現在の能力の高さあるいは低さは未来の能力の水準を反映したものだとはいいきれないわけで、ならば私たちは目の前の子が現在の能力が発達可能性をもつと仮定してその保障にとりくまなければならないし、プレイヤーも自分だけでなく友達にも発達可能性をもって接することでスポーツからの疎外要因を回避することができる。

 

(2)また、「スポーツにおいてどういった能力を発揮させるのかはスポーツをする目的と、ルールや道具や場所などの環境に依拠する」わけで、目的をあらため、ルールや道具や場所を工夫することでだれでも能力を発揮する可能性をもっているのである。広田さんはこの点について竹内さんの「能力の共同性」論をとりあげながら論じている。

 

実践化にあたっては、できない子が「わかって、できる」ようになったり、「特別ルール」などがつくられることがあったりしたときに、この「2つの能力観」がスポーツ実践を豊かにするものだということをどこまで学習内容として展開できるのか、ということが課題となる。

 

あ、日付をこえてしまった・・・。

 

※こういうおだやかな川もいいですね。1年半前にいった場所です。またいけるかな。

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