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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

障碍者スポーツにおける公式ルール志向から

体育理論・スポーツ・運動文化 読書ノート

藤田さんの本「障害者スポーツの環境と可能性」をよんだ。

 

いくつか印象にのこったことがある。

 

その1つが障碍者の方の「公式ルール志向」のつよさだった。

 

1995年には公式ルールでやりたいとこたえた人の割合は68.6%だったのが、2010年の調査では80.2%におよんでいる。

 

逆に、ルールにこだわらずにやりたいと回答した人は23.2%から10.6%に減少している。

 

調査全体をとおして、競技スポーツ志向のたかまりがみられるという。

 

これはつまり障碍者の方々が、レクリエーションや機能改善、健康だけではなく、「近代スポーツ」としてスポーツをたのしむ傾向がでてきたということなのかもしれない。

 

近代スポーツ志向が強くなることは納得のいくことではあるが、公式ルール志向が強くなることが同時におこっていることをどう考えたらよいのだろうか。

 

学校体育においては既存の運動文化は人類がこれまでつくりかえてきたものであり、我々もつくりかえていく対象としてうけとめなければならないこと、特にローカルなスポーツ活動においてはその傾向が顕著になってくる。

 

もちろん、スポーツ種目固有のおもしろさをそこなわない範囲でのルール変更が変革可能性として示唆されていく。

 

こうして、「ルールかかえていくものだ」というルール認識の形成を、運動文化の市民的教養として目標としてきた経緯がある。

 

一方で、障碍者スポーツにおいては「公式ルール」志向がこれほどにもつよいということ。

 

ひょっとしたら障碍者の方の社会参加への意欲の高さが反映されている可能性もある。

 

一般の人の公式ルール志向がどれほど強いのか、そことの比較がきになるところではあるが、いずれにしても、これは「競技スポーツ志向」の弊害としてとらえてよいものでもないきもする。

 

すなわち、

 

「スポーツのルールはそこに参加する成員みんながたのしめるように工夫してたのしめばいいんだよ。ローカルなスポーツ実践の中で豊かさを獲得することが実践主体になるってことなんだ」という理解は、それ「だけ」ではローカルなスポーツ実践にとじてしまう閉塞性をあわせもつということ。

 

今やスポーツは社会参加としての意味合いをもつほど、行政ー地域ー個人が密接にかかわるようになった。だから、上述のローカルなスポーツ実践に加え、「公共スポーツへの参加主体」という特性をふまえなければならないということなのかもしれない。

 

くみかえをおこすならば、

 

「スポーツは自分たちがたのしめるようにつくりかえていけばいい」というときの「自分たち」に、身内や地域レベル(ローカル)ー県・地方レベル(リージョナル)ー国レベル(ナショナル)ー国際レベル(グローバル)の「自分たち」があるということを想定していけばよいのであろうか。

 

つくりかえる状況を具体的に想定したとき、どんな体育実践の多様性がうまれるのだろうか。

 

あまちゃんのロケ地。こういう岩肌とか水面とか、すきなんですよねぇ〜。

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