TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

自分たちのルールをつくる授業で文化的な特質を理解させる。

11月28日に滋賀県で中学校教員によるバレーボールの実技学習会があり、参加してきました。

 

ここでなるほどなとおもうことが1点。

 

それは次のようなことです。

 

 

今年度の夏の全国研究大会で議論されたことは次のことでした。

 

 戦術・技術の系統的な指導によって戦術・技術認識を媒介とした学習集団を形成していったとしても、単元最後のまとめのゲームにおいては、競技が白熱し勝利志向となることで、学習対象とする教材(運動種目)の文化的特性がむきだしになり、戦術・技術でつながった集団の関係性がたちきられてしまう。

 

 どういうことかというと、フラッグフットボールで、戦術・技術の系統的な指導をして学習集団をたかめていったのだけれど、最後の試合で、できる子がみんながタッチダウンをめざそうとするために得点役になれず、ゲームを放棄するという事態がおこったのだ。みんなで決めた目標であったけれど、ゲーム場面では自分のプレイ性が優先されたということだ。

 

 そのときの総括としては、機能分担的な特徴があるフラフトの文化性に単元の中盤におけるためしのゲームのときに「なじませる」ための対応、つまり、トラブルの集団的な解決や審判方やルールの確認が中心になるのだが、他にもゲームのおもしろさをめぐっての合意、文化的特性の学習などが想定される。※ちなみにできない子がいつまでもできない事態もおこった。これは系統的指導の問題やルール設定などの問題もある。

 

②で、今回のバレーボールの実技をふまえて、そこでの働きかけのヒントがえられた。

 

それは「このゲームをやってみて、何がたのしかった?」(さらに高度になると「どんなゲームがしたい?」となる)「どこに穴があった?」「たのしくなるためにはどういうルールにする?」という問いかけをしくむ、ということだ。

 

バレーボールでいうならば、「たのしかった」のは「ぎりぎりでつながること」とか「みんながボールにさわる」とか「相手の攻撃の意図がみえる」とか、「ラリーが白熱する」とかそういう返答がくる。このときに「ぎりぎりってどんなの?」「白熱ってどういうとき」などとつっこんでいって、具体的なおもしろいプレー・戦術にまで話をすすめていく。

 

そのきっかけにもなるのが「どこに穴があった?」というものだ。

 

そして、どこに問題があったのかもふくめ、こんなバレーボールがしたいというひとまずの合意をつくり、ルールをきめていく。

 

 講師の方は、バレーボールはスパイクとラリーの継続をめぐってゆれうごく未完成な文化であるために、「自分たちのルールをつくっていく」学習ができる教材だとのべた。でもそれはフラフトでもそうだし、バスケでもそうだと自分はおもう。

 

 

うまくつたえられないけれど、これは結構すごい、というか大切な発見だとおもう。

 

教材には固有の文化的特質がある。

 

しかしその文化的特質には集団をたちきる原理も内在していることが多い。

 

ある意味、スポーツから疎外をうけるということだ。

 

私たちはこういう疎外とのたたかいを授業の中でおこなわなければならない。

 

 

できない子やしいたげられている子の実態を分析することはだから重要なのだ。

 

 

バレーボールでいえば、かつて9人制にはローテーションルールがなかった。それでずっと後衛にいて、たまにとんできたボールをミスして、せめられ、泣き出してしまう子がでてきた。力のある子は前衛で、器用な子はセッターや中盤で、後衛はいつも貧弱なタイプの子だった。

 

これらの疎外要因の解決方法は6人制のローテーションルールの導入といった「ルールの改変(特別ルールもあり)」と誰もがスパイクをうつことができるための指導といった「戦術・技術の系統的指導」にあった。

 

しかし授業においては後者の「戦術・技術の系統的指導」が学習の中核となることもあって、そこにエネルギーがどかっといった。

 

そのため、「ルールには必ずメリット・デメリット(特性)があって、合意のもとでつくられる」、つまり「スポーツをつくっていく活動」が軽視されてきたとおもう。

 

近代スポーツにつながるために、いかに発達段階を考慮して「ルールを改変した新しいゲーム」や「戦術・技術の系統的な指導」をしくむのか、という点にすすんだ。到着目標は既存のプロ・ルールであったのだ。

 

だから、「文化的特質」をわがものにする活動は、十分に組織されず、それは教師の手にあったといえる。

 

 いかに文化的特質にせまる戦術・技術学習とルール学習をして、その上で、いかに自分たちのルールをつくっていくのか、

 

講師のいいかただと、いかに自分たちの願いを技術、ルール、制度にこめていくのか、ということがこれからの課題になるのではないかとおもう。何度かのべているけれど、この背景には主体者形成の像がスポーツやスポーツ組織の多様化によって変容したことがあるだろう。

 

またきしくも国際的な学力観ともつうづるものがある。

 

教科と教科横断的な能力の区別といっても、表面や柱には確実に教科の学びがないといけないのだとおもう。そのありかたの1つが「自分たちのルールをつくっていく授業」なのだろう。領域固有の学び(戦術・技術・文化的特質)のためのアクティブな学びだ。そのためには膨大な教材研究が必要である。ネットの高さはなぜ?ローテーションルールにこめられた思想は?ボール・コートの改変の背景にはなにが?といったことがわかっていないと、改変の論点がみえてこないからだ。

 

これはスポーツ界全体の課題でもあろう。バレーボールのスパイク重視とラリー重視の矛盾のように、文化にひそむ特質の矛盾があるのかないのか、このあたりのスポーツ学が発展させられていかなければならない。

 

※写真は豊橋名物、カレーうどん。

 うずらのたまごがのっている。

 下にとろろ・ごはんがある。

おいしいようですが、自分は別のものをたべました。次はこれですかね。

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