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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

オリンピックにむけたプロパガンダ(羽生選手)

昨日、羽生選手のスケートをみて驚いた。

 

近年はテレビのない部屋にすんでいるので、羽生選手の演技を視聴することはぱったりとなくなっていた。

 

なので、1年以上みていなかった。

 

でも、昨日の演技をみるからに演技の全体構成、ジャンプの正確さ・雄大さ・なめらかさが確実に熟達している。

 

そして驚くべき点数をたたきだした。

 

その一方で、この羽生選手が教えてくれる技術の美しさ、表現性をつまらないものにしているもう1つの演出がめんどうだった。

 

羽生選手が演技をおえた瞬間。

 

観客席には無数の日の丸の旗がゆらめいている。

 

これまでこんなことはなかったではないか。しかもみな同様に新品そうな日の丸をかかげている。

 

なるほど、これはオリンピック関係者や公務員をただでチケットをとるから旗をふるようにと動員したのだろうな、そしてその親族・友人までも許可しているからあそこまでの数になっているのだろう。もしくは会場で配布されていたのだな。

 

その後羽生選手のインタビュー。

 

インタビューでは「長野五輪の会場」であることが羽生選手・インタビュアーから強調された。あらかじめ選手にも「オリンピック会場」であることが伝達されていて、その練習・パフォーマンスもかねていることが強調されていたのだろう。

 

それで日の丸だったのだ。

 

NHKは、そして羽生選手は人々の目に、羽生選手によるオリンピックのメダル獲得=やすっぽい「夢と感動のレガシー」を期待させることに大成功した、というわけだ。

 

はっきりいって、スポーツの発展にとってこの演出はきわめてマイナスである。

 

オリンピックは国開催でなく市町村開催にしているのは、こうして国同士のたたかいを彷彿させ、ナショナリズムを基盤とするスポーツの勝利至上主義や優勝劣敗主義の激化を回避するためである。

 

選手たちもメダル獲得競争にまきこまれることで、自らの選手生命を短命にさせていることに気づかないのだろうか。

 

いや、きづいているはずだ。

 

そうおもっていた。

 

でも、きづいていないのか、と今回おもった。

 

試合後の実況席で、元スケーターの織田・鈴木選手のコメントはきいていられなかった。

 

いかにスコアがありえない高さで、いかに感動したか、その1点を身体的に表現するのみである。

 

織田さんはもうキャラ化してバラエティー番組に出演するほどテレビ業界にそまっているのでしかたがないかもしれない。

 

でも、鈴木選手はそうであってほしくなかったと個人的にはおもう。

 

誰も羽生選手の何がよかったのか、技術的な特徴などを解説することはなかったのだ。

 

もう「オリンピックで夢と感動のレガシーをもらおう!」のプロパガンダは強烈にはじまっていたのだ。これは迂闊であった。

 

オリンピック憲章やスポーツ基本法にもとづく「レガシー」への道をどうかさぐっていただきたいとおもう。

 

羽生選手もチャンピョンインタビューで感動を表現し感謝だけのべる純粋さはあらためたほうがいい。その行為自体がスポーツ界にとってよいものとは、「今は」ならないのだ。

 

羽生選手の「純粋さ」と、その「純粋さ」に美徳や愛情をもみいだすファンをみて、おおやれやれと陰でほくそえんでいる人がいるのだ。

 

ファン層がみな女性であることが、つくられた観客たちであることをものがたっている。ややこしいのはフィギュアスケートの特性を利用しているから、当人はいたって「純粋」にたのしんでいる、ということだ。

 

※たぶん、まとめると「アイドル化する選手たち」という現状なのであろう。かつてのアイドルブームにひたった年齢層がおおいなと観客をみていておもうし、おっかけファンもいるようだ。わが子を励まし応援する、そういうつくられた母性なるものをフィギュアスケート界は演出してきたのだろう。

 

競技生命は短命となり、選手は低年齢化し、非常に安あがりなもうかる業界となったのだった。

  

繰り返しになるが、オリンピックにおける国単位でのメダル獲得競争はスポーツ選手やスポーツの世界をだめにする。メダル獲得競争をするなら別のメガイベントを開催してほしい。オリンピックとの区別が必要だ。

 

※写真は愛知大学クロマツ。立派でした。

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