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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

体育は「担い手づくり」なんだなぁ。

朝目覚め、物思いにふけっているときにふと本棚にめをやると一冊の本が目についた。

 

玉木さんの『スポーツとは何か』だ。

 

 最近は学校体育の目標である主体者形成論が、現代スポーツの変容とともに再考をせまられていると実感するようになってから、現代スポーツの動向にも関心がむくようになった。

 

本書をよんで、あらためて現在にいたるスポーツの歴史的経緯に学ぶことがおおく、ようやく、視野がひろがってきたことを自覚した。

 

特に、①欧米スポーツを受容する明治以降の旧帝国大学出身の人たちによる学校教育への普及や、②高度経済成長期における福利厚生とアマチュアリズムを称賛する世論を背景とした企業スポーツの普及を経て、いよいよ③スポーツ組織としての「Jリーグ」が誕生するにいたる経緯が興味ぶかかった。

 

玉木さんは「Jリーグ」を次のように評価する。

 

 ホームタウンの自治体と地元企業と地域住民が三位一体となってクラブを運営し、プロ・アマを問わず、サッカーだけでなく、日本のスポーツ文化全体の発展を目的に掲げたJリーグは、日本で初のスポーツを第一義的に考える組織、といえるのである。

 

今更ながら、日本のスポーツ文化・環境もそれなりに成熟してきたんだなと感慨ぶかくなった。今までJリーグは企業スポーツと同列におもっていたけれど、この評価をよんでようやくその意義を理解することができた。反省すらおぼえる。

 

といっても、その運営は企業スポーツ文化のなごりによって困難をしいられているようではあるが。

 

で、ちょっときになったのは次の記述である。

 

 企業スポーツは企業利益の追求が第一義であり、学校スポーツ(体育)は教育や私学の宣伝が第一の目的である。したがって、それらを統括する団体も、スポーツの振興と発展を目的に掲げたところで、第二義的な意味合いの範囲内での活動しかできなかったのである。

 

 うーむ。

 

 学校体育にとってスポーツの発展は第二義的である、という点。

 

 なるほど、教育は「スポーツを発展させる」のではなく「担い手づくり」が目的という自覚が必要なんだろうな。

 

 「スポーツ文化を継承・発展させる」ことが学校組織の直接的な目的ではなく、あくまで人格・人間形成のために、「スポーツ文化を継承・発展させる主体者に必要な教養を獲得させる」ということが目的になる。

 

極端なことをいうと「新しいスポーツを教えること」がそのまま教育ではないということ。

 

また「既存のスポーツを教えること」がそのまま教育ではないということ。

 

すなわち、どんな教材(スポーツ)であれ、「○○なスポーツ『で』どんな『担い手』を育てるのか」という視点が不可欠だということ。 

 

主体者形成だからと常に新しいスポーツや最先端を教えればいいわけではなくて、過去にもどることもあるということ。

 

豊かなスポーツ文化を育む『担い手』に必要な学びが何か、この像を柱にして教師の教材選択がなされる。

 

目標とする『担い手』像こそが重要で、教材はあくまで素材なのだ。

 

場合によってはスポーツが今後どのように発展したとしても、普遍的な教科内容なるものが想定されることもある。『教室でする体育』がめざした3Rsの発想がそうであろう。

 

逆からみたら、スポーツ政策を立案する際、スポーツ=教育とする見方も問題が生じる。スポーツはそれ自体として独立して存在するものである。玉木さんも文科省にスポーツをゆだねず文化省をつくるべきだと主張している。実際にはスポーツ省ができたことはいいことなのだろう。

 

ちなみに、上記ではスポーツの発展と学校教育の目標はひとまず別物としてとらえたが、人格・人間形成=スポーツの発展となる場面も、授業の中ではおこることもある。別物だけれど一致するものであるということ。

 

 そんなことを考えているうちに学校体育がスポーツの発展にどのように関わっていくのか、このことのビジョンがまだ自分にはないなときづかされた。

 

まずはこの世界に多層的に広がるスポーツ空間から地道にかんがえていきたい。

 

赤目四十八滝シリーズ

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