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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

火花をよんで

読書ノート

処女作というものはこういうものなのだろうな。

 

『火花』はお笑い芸人の又吉がかきあげ、将来みこみのある純粋文学の新人におくられる芥川賞を受賞したものである。

 

作風についてはよくわからないが、おおかたストーリーは、常識や世間からではなく自分の内面的な表現をきわめて全うする「あほんだら」(ユニット名であり、本人の属性も意味する)の先輩芸人神谷さんと、神谷さんに弟子入りして以来、自分らしくふるまうこと(生きること)をゆるやかにとりもどしていくスパークスの徳永さんの話である。

 

若干ニュアンスがちがうけれど、まぁそれはよしとして。ひとまず上記のようにおさえた。

 

冒頭にあげた感想はまさに、スパークスの徳永さんが又吉の芸風にきわめてにていると感じたからである。

 

推薦分にもそうとらえたものであろう記述がある。

 

さて、一読してみて。

 

序盤はとてもおもしろかった。しかしそれが神谷さんの人柄にひかれたものであったことは読んだ後になってわかったことだった。

 

熱海の花火大会での漫才で、通行人すべての人に「あんたは地獄へいく」と宣言しているとき、子どもだけは「たのしい地獄」というあたり、とてもインパクトがあった。

 

状況描写などすっとばしているのできっと伝わらないだろうが・・・。

 

しかしこの小説のいいところはその後だ。

 

私たちはなんでも専門家にゆだねることで長寿を実現したものの、自前で造形する能力とともに自分たちのアイデンティティ(自分らしさ、自分が存在することの価値や意味)をうしなっている(鷲田清一)。

 

こうした時代にあって、神谷さんは読者を魅了することだろう。

 

そういえば鷲田さんは朝日新聞の一言欄でセッターの竹下さんの言葉を引用して日本のお祭りは人々に役割をもたせ、その役をまかせきることで、自分がいなきゃはじまらない状況をつくることが、人のアイデンティティを育て成長につながることを指摘しいた。

 

鷲田さんにとって現代はアイデンティティが確立しずらいという主張は一貫しているようだ。ちなみに最近このことに関してなるほどと思ったのは、人間関係が多数化することによって特定の関係性が維持されないこともアイデンティティが形成されない要因の1つだとする市川さんの論(「精神としての身体」)だ。

 

小説がいいなぁとおもうのは、神谷さんの臆することなく(あほになって)あたたかな個性を爆発させる姿をえがくとともに、次第にその個性によって神谷さん自身が苦しめられていく姿が描写されていくことだ。

 

決定的なのは終盤のシーンである。

 

徳永さんは神谷さんに「内面的な純粋さを表現したものは、他者を想定しないがゆえに、知らないうちに、見知らぬ他者を傷つけてしまう」ことを指摘する。

 

 「そうですよね。神谷さんには一切そんなつもありがなくても、そういう問題を抱えている本人とか、家族とか、友人が存在していることを、僕達は知ってるでしょう。全員。神谷さんみたいな人ばかりやったら、もしかしたら何の問題もないかもしれません。…でも、そうじゃないでしょう。そういう人をバカにする変な人がいるってことを僕達は、世間の人たちは知っているんですよ。神谷さんのことを知らない人は神谷さんを、そういう人と思うかもしれませんよ。神谷さんを知る方法が他にないんですから。判断基準の最初に、その行為が来るんやから。神谷さんに悪気がないのはわかってます。でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」。

 

面白くないことと同義という点は神谷さんにとって根本的な問題をつきつける厳しい一言となっている。

 

しかしそれでも、その純粋さを最後まで輝かす神谷さんが最後に描写される。このおわりがまたいい。やっぱりその姿に、人は本来の自分をみようとする。

 

 そういえば、「思い出のマーニー」に製作者がのせた意図は「大人の世界ばかりがとりざたされる世界の中で、子どもの生活世界がみすごされてきてしまってはいないか」という疑問であり、それに対する問題提起であった(種田陽平)。

 

 神谷さんによって表現される純粋さはおそらく誰もがもちうるものだとおもう。しかし現実の中で常識や世間体によってゆがめられ、それが生きづらさとなってついてまわる。

 

 この小説のいいところは、神谷さんの純粋さがまた自分を苦しめる構造をちゃんと描写しているところであろう。しまった、くりかえしになってしまった。

 

 つまりいいたいのは、理想ばかりをおいもとめることを読者にもとめるものではないのだ。私たちは自分たちの生活を神谷さんと徳永さんの理想と現実が交差するかけあいをとおしてふりかえりることで、より現実的な神谷さんの内化をしようとおもうにいたるのではないか。

 

本書の帯には人が生きるとは?とあるが、人が自分らしく生きるとは?という主題であるとおもう。

 

メッセージ性もちながら、又吉らしさをふくみこんだところがこの小説のいいところ、というか、共感できるところ。

 

写真はこの夏の研究合宿でのおおあさり

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