TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

グローバルということについて

先日、アクティブラーニングを推奨する研修会でとらえられていた「グローバル」が経済成長をひっぱるエリートの育成を意味していたという話をきいた。

 

養老さんの『文系の壁』をよんであらためてこのことが頭をよぎった。

 

「グローバル」とはなんともややこしいなぁとおもう。

 

「グローバル」は世界規模でのという意味合いを根本的にもつであろう、ここから多様な意味が派生してくる。

 

「グローバル」=国際理解

 世界にめをむけると多文化共生を地球規模で推進していくことがのぞまれる。その意味で、民主的な社会関係の構築や、社会的な弱者を国際的にケアするためには多様性を認めることがもとめられる。この意味で、グローバルなという視点が強調されることがある。

 

「グローバル」=国際問題

 世界的な規模での問題がある。地球温暖化しかり、異常気候しかり、エネルギー問題しかり、である。この地球規模での問題を解決しなければならない普遍的な価値観が主張される場合に、グローバルなという視点が強調されることがある。

 

「グローバル」=国際競争

 主に経済成長社会を維持するために、国際的な貿易関係は拡大をつづけている。先進国は新たな開発地域をもとめて発展途上国をみさだめる。私たちはこれから「経済成長をつづけるために」国際的な競争を勝ち抜かなければならない、という意味でグローバルなという視点が強調されることがある。

 

むずかしいところは、国際問題をかたろうとするとき、「経済成長論」への抵抗が一定程度生じるからである。

 

「グローバル」をかたろうとするとき、私たちはある一定の政治的な価値判断をせまられるのである。

 

だから、共通の土俵にたって建設的な議論がしずらいのだ。

 

それでも、どんな社会をみすえますか、ということを視野にいれてグローバルをどう位置づけるか、そのことを明確にした上で、これからの社会で大事にされなければならない人間的な価値や文化とは何かということが吟味される必要がありそうである。

 

さて、もう1つグローバルというときに考えることがある。

 

それは、グローバルはある一定の基準に合意するという意味合いがあることである。

 

つまり、「グローバル基準」としてあらゆるものが一元化される可能性もある。

 

養老さんは「グローバル」を嫌っているようで、それは生物多様性の観点からみたら、グローバル基準がどんどん他領域に拡大していくと、生物的にみて同一のものは存在しないのに、同一視する基準(概念や分類枠)がどんどん抽象化され、多様性を喪失するという理由があるそう。

 

これは「平等」概念とちょっとにているなぁとおもう。

 

近代スポーツは「自由と平等の思想」(中村)を内包したことで、階級社会や差別是正に重要な効果をもたらしてきた。「平等の上になりたつ競争」だからこそ意味がうまれた。

 

ネルソンマンデララグビーなどはすぐ想起されるだろう。

 

しかし、一方で「あなたたちは同じ人間だ」とすることで、自己責任論や自然淘汰論が発生するし、人間のパーソナリティ(人間の多様性)も同一視されることになる。

 

この構造からうまれるスポーツの問題性ついてはかつて社会学の領域からも痛烈に批判されていた(ましこさん『たたかいの社会学』)。「平等の上になりたつ競争」の特殊性も検討する必要がありそうだ。

 

グローバルも平等も、「多様性を前提として」、その多様性のあるものを「一定の基準によって一旦括弧にいれて事象をとらえていく」性質をもっている。

 

つまり、両義性をふくむ概念だという理解が必要なのかもしれない(松下さんの『あたらしい能力』の考え方ような)。

 

したがって、「多様性」が前提になっていない「グローバル」や「平等」がひとり歩きしてしまうことが問題なのかもしれない。

 

多様性・個別性の尊重・保証が、集団的な合意や民主的な思想をうみだす。

 

そして画一性の尊重・保証が人々の参加する権利をうみだす。

 

両者が統一される世界が望ましいといえる。

 

でも一方で、

 

画一性の強化による多様性・個別性の喪失、多様性・個別性の強化による画一性の喪失、などがおこる。

 

両立しているものという見方で、いいときにはいいものとしてはたらくけれど、わるいときはかなり負の相互作用をうむ、ということ。

 

常にどちらかがかたよったら修正のためのゆれうごかしが必要だ。教材としての近代スポーツは、そういう危険なものをとりあつかっているという自覚が必要かもしれない(日大の鈴木さんは体育教員を危険物取扱業者だとする見方を提示している)。

 

だから、戦術・技術において「うまい」「へた」は相対化されるという出原さんの理論は、同時に、多様性や個別性もどこかで担保する理論として発展させる必要があるようなきもする。

 

とりとめもない話でした。すみません。

 

※写真は万博公園ムラサキシキブ

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