TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

身体と学校体育についてちょろっとかんがえたこと

本日とある大学で考えていることをはなしてほしいということで60分程話をしました。

 

その講義は身体としての人間を考える講義となっていました。

 

そういうことははじめてでとても肩がこった。

 

おそらく話をしている間、ずっと肩に力をいれていたんだろうとおもう。

 

なんとかひねりだしたことは次のようなこと。

 

①私たちは身体経験・運動経験がとぼしい生活になってきているのではないか。

 道具や機器をあつかう日常生活行動や労働形態がふえた。エレベーター、電車、など移動手段を利用する際には規律的な身体行動が大事になる。ただ、単に公共の場としての規律性だけではなく、自分の身体を機械や道具にあわせる生活・労働が増加してきている。

 それにくわえて、運動環境の激減、スポーツの商業化、地域の伝統行事の衰退など多様な要因がからまって、身体との距離が非常にとおくなってきているのが私たちではないだろうか。

 

②私たちはしらない間に身体についての見方を学んでいる。

⑴特に学校体育についてひきよせれば、身体の規律性と運動経験は大きな影響をあたえることになる。少し歴史をふりかえってみた。1872年に学制が制定されて以降いわゆる義務教育がはじまり、1873年には体操が中心教材となっていく。転機としては1885年に文部省から兵式体操を教材とするように通達がおりたこと、また1913年にスウェーデン体操が導入されたことであろう。

 兵式体操については以下の文献を利用した

 

生田清範 編 兵式体操教範 : 図入. 巻之1著者 「近代デジタルライブラリー

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843791

 

 著作権は50年できれるのでライブラリー化されて、さらには公開されていますね。

 

で、これをみるといわゆる「集団行動」として現在もおこなっていることだとわかる。隊列の変形や行進、集合時の距離の取り方など、そのままである。

 

またスウエーデン体操については成田十次郎さんの文献から写真をつかわせてもらった。

 

⑵また兵式体操は日本人の身体所作を変容させた。なんば走りとよばれる動きかたは江戸時代の日本人ならみんなしていたものであったそうだけれど、この兵式体操によって西洋式の行動様式を獲得していったのである。稲垣さんはここで日本の人たちは理性でもってからだをコントロールしようとする経験をもったんだという見解を提示している。

 

さて、こうしてみると、①私たちはかつての軍隊式の行動を今でも学校体育で学んでいることになる。それは形をかえて、まさに規律的な身体を獲得するためにやられている。もちろん、防災時などで混乱しないためには必要なことである。問題はこうした規律的な身体を学ぶ一方で、ゆるやかなからだについての学習が乏しいことであるのだから。また②しらない間に身体観というものは身につけさせられてきているという歴史が私たちにはある、ということも指摘しておきたい。いつのまにかそういう教育・指導によってからだ観はつくられているのであって、体育の教育的効果をしっかりとうけとっていること、そしてだからこそ、自分の見方、考え方はまた問い直して行く必要がある。

 

特にここでかんがえたいのは、普段からだの声をきくことを私たちは無意識的にやっているとおもうのだが、そのことが意識的にやられていない。また運動経験がスポーツ的なものがほとんどでヨガやピラティスなどもっと多様であっていいはずなのに、そうなっていない。「規律的な身体」だけをかんがえていると身体・運動文化がとぼしくなるという危惧をわたしはもっている。

 

③「体つくりの運動」に大転換したけれど、問題あり。

 かといって実際に学校体育は「規律的な身体」だけをとりあつかっているわけではない。「体操科・体錬科」から「体育科」に変更した戦後も学校体育は「体操」領域をつくってきた。それが1998年に「体操」から「体つくりの運動」へと大転換している。これは体操がはじまり終戦までの約60年間と戦後の約60年間をあわせ125年間継続させられてきたものを変更するものであった。こうした大転換がなされた背景にはやはり子どもたちのからだの悲鳴が背景にあったのである。

 1980年代後半からいじめ・不登校・暴力問題が多発されていたことが問題視されていた。1990年代にはいってからはのきなみその数が増加していった。こうした背景には子どもたちの生活環境の激変にともなって夜型生活の慢性化、ジャンクフードの習慣化などによって子どもたちの自律神経が過剰反応し、キレやすく敏感な精神状態におちいったことがあるとかんがえられた。この時期、阪神淡路大震災によるトラウマが問題となったり地下鉄サリン事件なども問題となり、子どもたちの「心」に注目する声がたかまっていった。それと同時に、正木さん、野口さんらがおこなった「子どものからだのおかしさ調査」によってからだの不調やからだの発達不全がおこっていることが問題となる。そして学校体育としては、1995年の審議会をへて、1998年の指導要領に「体つくりの運動」の中に「体ほぐしの運動」と「体つくりの運動」を併設した。

 

この動きに応じて様々なからだほぐしの実践研究がおこなわれ、高橋和子さんや久保健さんらによっておおくの著書がだされ、「感じない」「動けない」「ひらけない」「かかわれない」「表せない」からだや自分に気づく「からだ気づき(ボディアウェアネス)」がテーマになっていく。

 

一方で、「体つくりの運動」と併設されたことで、おおくが身体的なレクリエーションの場となり、学級開きの際にコミュニケーションをとるための時間となったり、体つくりの運動とからめて、ややトレーニング的なものがおこなわれる時間となったりした。

 

たとえば、高橋健夫『体育科教育』(1998,9)さんの次の説明である。

 

  ①のびのびとした動作で用具を操作する運動

  ②ペアーでのストレッチング

  ③リズムにのった体操など、リズミカルな動きでの運動

  ④ゆったりとしたペースでのウォーキング

  ⑤やさしい身体活動を伴う伝承遊び

  ⑥戸外での様々な運動遊び

 

結局、からだほぐしの目標が曖昧であり、身体的なコミュニケーションの活動をおこなうねらいがふわっとして活動主義的な時間になってしまったし、本来からだほぐしの領域でやろうとしたことがなんだったのかをみうしなってしまう。

 

当時問題となった不登校の数は7万7千人の不登校であったが、現在12万人にまで増加している。子どものからだのおかしさは次の段階にきているかもしれない。からだほぐしの実践をみつめなおす必要があるとおもう。

 

特に、私がかんがえているのは、やっぱり「体つくりの運動」の1領域ではなく、からだほぐしとして独立させる必要があるということだ。

 

④ちなみに今きになっていること、震災後の子どもたちに被災地の教師がしたこと。

 からだほぐしの実践の中で生きている証拠さがしという実践がある。実はこの実践の蓄積が震災後にいかされることとなった。「からだほぐし」の領域がはいらなかったら、こういう授業はうまれなかったのだろうとおもうと、かんがえぶかいものがある。

 これは『体育科教育』で被災地の体育実践が連載されたときに紹介されたものだ。震災で家族を、家を、友達を、地域をうしない深く心にきづをもった子どもたち、学校が再開したとき体育教師が何をできるのかかんがえた。そこでかんがえたのはスポーツではなく、からだをとおして「命」や「生きていること」を確認する授業であった。

 自分のからだをとおして「命」とは「生きる」とは体温をもっている、呼吸をし生きようとしている、そういう身体的存在であることが基盤にある、こうしたことを体験的にまなんでいく。

 この授業にどういう意味があったのか、かんがえたいことである。

 

⑤学校体育・スポーツは私たちのからだに何をきざみこんだのか。

 これまで「体操領域」、「体ほぐしの運動」についてあつかってきた。でも学校体育のおおくはいわゆる近代スポーツが教材となっている。ではその近代スポーツの授業でどんなからだ観を私たちはもつようになったのだろうか、これをかんがえてみたい。

 たとえば、「笛でうごかされる体育」「からだをかんじる以前に、型ばかり習得するトレーニング的体育」「体調不良を根性や気合でのりきる体育・部活動」「運動自体からえられる身体的な心地よさを軽視したがために、大会後…もう、やりたくない…とかんがえてしまう体育・部活動(燃え尽き症候群)」などはよくある事例ではないだろうか。これらはすべて「外からみたうつくしいからだ、たくましいからだ、従順なからだ」であり、この外のものを自分のからだにあてはめるものではなかったのではないか。外向きの身体なのである。

 もちろん、スポーツそれ自体には内向きの身体もある。合理的な運動をおこなうときにからだからかんじる情報を確認することは日常的におこなわれている。ここちよい動きが合理的なうごきであることがおおいからだ。野口さんはこれをいいきっている。またヨガやストレッチや野口体操やマッサージなどの筋弛緩法を準備・整理運動としておこなったりもする。からだの調子をしらないと怪我をしてしまうからだ。こうしてスポーツ活動それ自体にも内向きの特性をもっている。でも、実際これがどれだけ学校現場で意図をもってやられているのかは疑問ではある。

 

⑥結論、主張

⑴学校体育・スポーツが私たちのからだにきざみこんだもの、それは西洋的身体観(所有としての身体、コントロールする身体)がほとんどではなかったか。

 

⑵多様な身体経験、豊かな身体経験をもてるようスポーツだけではなく、「からだ」(身体文化)についての学習も体育にとりいれるべき。

 

⑶身体文化を教材とする場合は次の2つが軸。

  ①からだのここちよさを追求する身体文化の豊かさの学習

  ②ここちよいからだに自己調整できるための学習

 

⑷課題は身体文化の「何を」教えるのかの模索。

 

 大川小学校で被災し娘をなくされた佐藤さんは「人が<命>にみえる」とのべている。そしてこの佐藤さんの言葉をかみしめ、学校はこの「人が<命>にみえる」という地平にたたなければ、子どもや地域をまもれないと制野さんは強調された。

 ここにならえば、「人を<身体的存在>としてみる」ということがどのような可能性をもっているのか、このことをもっと追求しなければ、教えるべき中身は発見されないだろう。追求課題としたい。

 

 

はなしをした内容としては上記のことである。現代社会をいきぬくためにはからだの声をきいて自己調整する実践力がもとめられるとおもう。これを獲得するとともに、身体文化それ自体のおくぶかさ、ゆたかさを学ぶ身体文化の教材を開発していくことが必要だとおもう。身体運動文化から「身体・運動文化(身体文化と運動文化)」を対象とする学校体育のカリキュラム構成をかんがえていけたらとおもう。

 

ちなみに、この報告の背景には講義でまなんんだことがたくさんある。

 

身体言語のことや、ボディイメージ・ボディスキーマ、西洋的身体観と東洋的身体観の差異、所与としての身体・所有としての身体、自然(死)に近い子どもたちの身体、野口体操、アーユルヴェーダなどである。これらから「身体」は自己や社会につながっていること、また「身体」は生命観や人生観につながっていること、「身体」は身体文化観につながっていることなど多様なかかわりがあることをまなんだ。

特に身体醜形病や身体加工、臓器移植などは身体観と関連しており、潜在的な身体観が自分たちの生き方にかかわっていることをしった。それは「身体」が中立ゆえのものだ。モノ的でもあるし、私的でもある、両特性をあわせもつ存在ゆえに様々な関連性がうまれてくる。

 

 

今後も、いろいろとかんがえられたらなとおもいます。

 

それにしても講義はむずかしいなぁ。

 

ちなみに、アンケート的なことをやりました。

 

①最近からだと対話したか

 50名中、4、5人が、毎日ストレッチをしたりお風呂でほぐしたりといった習慣をもっていた。それだけではなく、髪や肌で確認していることも記述されていて、自分は運動機能にかたよっていたなと反省した。そのほか怪我とか、つかれているとか全体的なものや外的なものが10程あげられていた。そのほかはなし。中には「からだのことはあえてかんがえない、無理をするために」という感想もあった。

 

②学校体育・スポーツで何をきざまれたか

 学科によって記述内容が変化した。自分が何を学んだのかということをかいてきたのは人間関係にかんする学科だ。そして身体にかかわってかいてくれたのがおおかたのが心理学科である。このちがいがうまれたのはおそらく「強制・強圧的指導」と「規律性」の区別が曖昧になっていたからだとおもう。「がんばれ!気合がたりん!」「無駄なことはするな」「はなしをきく態度がなっとらん」といったことは指導者の「強制・強圧的なかかわり」と「規律」がセットになっていて、人間関係についての学科の方々は前者のところにとくに引っかかっていた様子であった。運動だけではなくチームづくりを強制されたとか。心理学科の人は目上の人と話すときや団体行動のときはからだを緊張させるようになったとか、基本的にがんばればできるという指導のもと緊張させることをまなんだとかいてくれた。やはりからだをほぐしたり内側からさぐる機会はほとんどなかったようである。中には剣道経験者で足裏をのばす感覚がきもちよくてよくやるという記述もあった。 

 

今回、規律的身体、と内側をかんじる、ここちよさをえることを対置的にとらえて、その点にしぼったところに限界はあるものの、おもしろい反応もあってよかった。

 

ただ、学生をのせるのってむずかしい・・・・。

 

今回貴重な機会をあたえてくれた方に、大感謝です。