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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

『教育と認識』をよむ②

研究ノート(体育と認識) 読書ノート

ようやく勝田さんのほんをよみおえた。

 

なるほど、勝田さんの構想は非常に広範囲だ。

 

よみとったのは、「教育の目的」をふまえ「認識研究」をしていくべきだ、というストーリーです。つまり、①「子どもの認識」は「人間の認識」であり、現代社会も視野にいれていくこと、②教育は「人間の発達」に意識的にはたらきかけるがゆえに、「教育の目的」をふまえ認識発達を考えなければならないこと、そして③認識発達を促進する授業は演繹的な集団的授業研究があってそこから教育学的原則にのっとった典型を帰納的につくりだしていくことによって科学的な研究となる(そしてそれは人間の「創造(認識)過程」と類似している)ということ、とひとまず理解しました。

 

勝田さんの論だてが学校的意義・根拠や教科的意義・根拠を平易な言葉で説明しているところが特にいいなぁ、そして、めっちゃ参考になるなぁとおもいます。

 

さて、1回よんだだけのかなり恣意的なまとめをしておきたい。

 

まずは勝田さんの本のストーリーを自分の中にもって、それとの対比でもう1回本をよんでみて、具体的な主張について理解していきたいとかんがえる。

 

なので、以下はマイストーリーでおおくの部分をすてさっています。 

 

①「知識人」としての教師の責任

 ここで勝田さんは子どもたちの成長や未来に対して働きかける教師だからこそ、現代社会を批判的にとらえながらその行く末をみすえ、教育(授業)をかんがえる必要性をといている。

 

②認識の質と子どもの生活現実、③認識の発達について、④認識の発達と教科の系統

 ここでは教育科学研究会認識と教育部会で議論されたことの整理とそれへの勝田さんのコメントがならんでいる。ここでもまず勝田さんは「教育の目的を明確にし、全人間的な成長を目ざし、豊かなヒューマニズムと知性(論理的思考力、現実批判力、問題解決の能力、想像力)を育てるという観点から、各教科における認識の発達を、実践に即してとらえなければならない」と「教育の目的」を視野にいれた「認識発達」を追求すべきだとのべる。そして具体的には、「子どもの生活現実や意識から目をそらせることはできない。それへの深い洞察と共感をふまえながら、なおその現実に即しつつ、教科の内容をなす知識(認識の成果)の体系を貫く論理と、子どもの心理的発達の基本的な諸原則を学びつつ教授過程(認識の発達を目ざす学習の指導過程)と方法とを探求しなければならない」とよびかける。さらに、低学年の段階では知識中心よりも判断と行動の形式の育成を中心とし、その後、知識中心の系統にそって学習がおこなわれていくことを確認している。また「知識の目標は、活用できるということ」にあり、「思想や自然観などを先に考える」のではないということも確認している。

 

⑤教授過程とプラグマティズム、⑥集団思考と教科指導

 ここではデューイらのプラグマティズムを再検討しながら、「教科は、『科学的成果』を教えるのを目的とするような把握は、子供を創造的な学習から疎外させてしまう結果を生む。科学的成果を教えるのではなく、科学の遺産の発展的相続を通して人類の進歩に参加する能力を発達させることが目標なのである。そのためには、科学の成果どのように学習するのかという課題をもつものだ。そして、また誤解のないようにいえば、科学の成果を集団としての学級でどのように学ぶか、どのように教えるかということを抜きにして、以上の目的を達成することはできない」と強調する。

 

⑦教科について、⑧学力とは何か。

 子どもはある歴史的現在にうまれるが、行動あるいは欲求の社会的文化的ななかみや方向をもたずにうまれてくるため、成長や人間としての行動の発達ははたされない。目的をもって計画的に教育をかんがえるとすれば、どこかで教科をすえなければ無限にある学習素材からどれを選択すればよいのかわからなくなる。いつも全体を全体としてあつかって、そのものに全体としてぶつかっていくと、問題はいつも解決しない堂々めぐりをしてしまうため、教科の問題として追求する必要があるのだ。とはいえ、教科においても無限に学習が存在するのであり、われわれは未来を確実にみとおしていく科学的方法をもって教育内容を組織していくことがもとめられる。またその際、子どもたちの創造的な思考を可能にしていくことがもとめられるが、それは多様な価値観をもつ子どもたちが普遍的な価値をわけもって、自分自身を成長させていくことを授業で保証していくことが条件となる。

 また教科の目的を考慮するとはいえ、ひろく「学力」をとらえていたのでは問題は解決しない。「学校は、言語シンボル操作の能力を、実質的な対象認識に即して発達させていく諸教科を中心に教授が行われ、学習が組織される場所だということ、そしてそれらはアチーブメント、ないしはアテインメントとしてその成功度が測定できるという特性をそなえた内容にできるだけ限定すべきだ」と考え、「学校」概念として「学力」を言語、数学、理科、歴史、地理、図工(図形や立体構成能力)などに限定して測定可能な知的・合理技術的な教科内容を意味するものとして使用する必要があるとのべている。もちろんその際、「学力」は人間の知性や発達や学習のほんの一部であるということを自覚しておく。

 

⑨研究集会というもの、10、創造性と思考

 ここで勝田はもういちど授業レベルをはなれ、教育研究をおこなう教師の視点にもどる。民主主義を阻害する権力的欲求やそれを支持する支配階級の現実的な力がつよまる今日において、頑固な原理主義だけではたりず、同時に、柔軟で国民の要求や苦悩に触れながら、同感していく心と学問や文化の新しい創造的成果に動きを感じる探究的な精神を必要とすることを強調する。その意味で、多様な教育空間をあつかう民間の教育研究活動は、共同研究であると同時に運動という性格をもつものである。民間研では民主的精神をもち、現実の経験にねざして実践をもちよる。そこでの研究方法として経験(事例)の多数は経験の村長や真の実証(検証)の重視とはかかわりがない。共同研究でもちよられる経験や実践は教師ひとりひとりの人格がその心の操作をとおしてそれぞれ典型化の萌芽をうちにひめた貴重なものだ。それらを理論の光にあてながらぶつけあい、事実と経験のほうんとうの意味を精神にてらしだす典型にまでつくりあげていくのが共同研究の深い意義だ。

 

とりあえず、こんな感じかなぁ。

 

はじめに広い視点と柱をしめして限定しながら具体的な内容へとほりすすめ、最後にもういちど広い視点にたちかえるとともに、具体的な運動としての励ましの言葉をならべているとよみとれないだろうか。

 

本書の構成は非常に緻密にくみたてられていることがわかる。

 

まさに「教育と認識」をあつかったものだなぁとおもう。

 

また認識についてふかめていくときに、社会科における低学年廃止問題にふれた議論や、各教科間にわたる問題を視野に芸術的認識と科学的認識の関係を考察することや、科学的認識の形成(知識教授)と子どもの創造性の育成の矛盾にふれていることなどは興味深いとおもった。

 

時代状況がみえるとともに、教科を体系化していく視野や、教育学的原則から授業論をみちびきだそうとする姿勢はまなぶところがある。「認識」の問題は授業方法だけの問題に矮小化してはいけないなとあらためておもったし、その思考の手立てを明示してくれたことはとってもありがたい。

 

といっても、まだ混乱中。もう1回よんでみようとおもう。特に自分の関心にひきよせて。