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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

『知る・学ぶ』をよむ

読書ノート

シリーズ「日常を拓く知」をよんでみたい。

 

 

やさしいタッチの本なのでおもわずかってしまいました。最初は「食べる」にめがついたんですけれど。

 

 

本シリーズでは学問を学ぶ意味をふりかえることで、「学ぶこと」と「生きること」が分離しかねない今日の状況に対して、その2つをむすびあわせることをねらっているようです。

 

 

冒頭、「哲学」「歴史学」「言語学」などは、それぞれが長い年月をかけてつくりあげられた「学問」であり、そこには固有の世界観や歴史がある、そしてそれらはもともとは人間の生きる姿をとらえるためにつくりだされた方法だったはずだ、とのべています。

 

教育も人間が人からおそわり、生きていくことの意味を問う学問であるとかんがえてもいいんだろうなぁとここでおもう。

 

学ぶという能動的行為をおしえそだてるということは、生きることをおしえるということだととらえられることもできるでしょう。

 

学校では教科学習だけではなく生活指導などもあるから、「まなぶ」ことだけではなく、「人がそだつ・をそだてる」=いきかたをおしえるということもあるのだろうか。

 

体育でもスポーツとゆたかにいきることをまなんでもらいたいとねがっているわけで、となるといきることにとってスポーツとはどういう役割や意味をもっているのかということも私たちはかんがえていく必要がありそうだなぁ。

 

さて、本書は座談会にはじまり、次に論考がならぶ。

 

座談会は次のタイトルをみてもらえれば内容はピンとくるとおもいます。

 

①世界と社会を拓く学び、リアリティにとびこむ/体感からはじまる

 

 私たちは前近代と比較して家庭内労働が激減してしまっているわけで、日常体験の希薄さがきわだった生活をしている。こうした中で、ニュースでうけとる「情報」は等価価値として認知し、講義における学問的な内容は一種の覚えるための知識=記号であり、言葉と出来事が身体感覚としてつながっていない、身体感覚をともなった自分の言葉をもちにくい時代となっている。なので、リアリティのある世界にとびこんで、体感からはじまるまなびを展開せよ、様々な発見や驚嘆にであえるぞ、という主張がなされている。

 

②人文学の<知>とは何か?、文学・哲学・史学の現場から

 

 私たちは高校生になるまでの生活において物事を知る・考えることについての一定のわくぐみを獲得してきている。特に受験的学力が要求されることで「わかるーわからない」を両極においてしまう思考におちいり不知の未自覚(ソクラテス)や「わからなさ」への不信が蔓延してしまっている。「知る」ことが「理解する」におきかわっており、「理解できない」ことをなくしていくことととらえられてしまっている。本来ならば、「わかるーわからない」の両者をおぎないあうように考えることが必要で、「わかる」で大切なのは、どこにわからないところがのこったかがわかること、「わからない」で大切なのは、どのようにわからないかがわかってくることである。

 また現代においてはグローバル化・コミュニティ関係の多様化にともなって「いろいろな人たちと友達に」「いろいろな科目を受講して」という「いろんな」という横のひろがり=多様性への欲求をもつ人たちがおおくなったという。そこでは「友達」=「知人」、「知識」=「身につけるもの」という身体レベルの実感が反映されていない表現となっている。

 またある高校教員が高校生は半径10メートル以内でしか生活していないといい、自分を中心にした半径10メートルの中に生活圏があり、その中でおこっていることを「現実」だとおもう世界観があるのだそう。

 言語とは世界を区別する記号でもあり線引きは恣意的であって、時代やものの見方・考え方が変化すれば、世界の区分の仕方に応じてそれぞれの現実があらわれてくる。いわば思考や考えることは自身の世界の見方をくずし、変化させ、身の震えるような喜びを味わうことができる。知の特性を理解し既存の枠組みを溶解させていく必要がある。

 

③大学での学び方、協同学習、教師、読者

 

 ・アウトプット・インプットのバランスが大事、協同学習の効果。

 ・自己肯定感がつよすぎたり、よわすぎたりすると、「今ある」自分がよくみえなくなる。自分のいる場所がどういう場所なのかが相対化できず、自分がセットしてしまっている基準の狭さに気づけていけない。その呪縛をとくために学問で多様な学識や知恵をまなんでもらいたい。読書においても、1冊をバイブルとせず、2、3冊よむことで主張の対立にきづき、多様な理解の仕方をせまられることになる。

 ・また多面的な見方をもち新しい見方を創造する場合、次のことが重要。スティーブジョブズ「創造するというのは、無から有をうみだすことではない」「創造するというのは、すでに有るものを新しく自分で関連づけることなのだ」。多様なものを関連づけてかんがえていく思考の中で新しいものがうまれてくる。自分の枠組みをこえていく作業が必要になる。

 ・生きぬいていく力は勝つことではない。さまざまな人、場所、物にしやをひろげ、かかわりあいながら、自分の人生をつくっていくということ。就活は勝ち負けとおもうかもしれないけれど、人生の場所選びをしている。

 ・物事は続いていて、いつも途上なんだという感覚をもつことが大切。

 

→ 全体的に身体感覚をともなった言語をどう能動的に自分の中につくりあげていくことができるのかが問われている。また途上感・不知・「わからなさ」への信頼をもって多様な学識・知恵を学び・関連づけながら、これまでつちかってきた固定的な認識枠組みを溶解し、いかに「生きる」につながる豊かな学びを展開していくかということを問うている。現代的な思考方法の特徴の分析は以前紹介したことと関連していて興味ぶかかった。思考・知識はこれまでの枠組みを変容させてくれるもの、という理解はおぼえておこう。

 

2つのめの3つの論考については、大学生むけということもあって、学校での学びを意識したものとなっている。

 

1哲学、すべての前提を疑い、新しい目をひらく

 「学ぶ」目的について、①職業や社会生活に直結した内容は、学ぶ意図や目的がわかりやすい、また②学校での学びとは、社会の設計を目的に構築された段階的なプロセスとなっている、③しかし「学ぶ」とは語源的には「真似る」「熱中する」「習慣づける」「教える」といった意味があり、私たちはしらないうちに「学び」の姿を画一化してしまっている。熱中指導要領とはいわず、「学び」の意味が分離していった背景には国民国家の形成と近代化が深く関わっている。エミールやデューイの教育論が有名だが、かれらからは、あらゆる個体は、生きるために、生の経験を秩序づけ、組織化していかなければならない(習慣・習性形成)のであり、環境との関係のなかで成長する行為主体という観点から教育を見直し、自発的な学習を助長していくべきだという視点がしめされている。一方で、「教育」には「外からの力によって内部にあるものを外に出す」という動きをあらわす意味をもっており、「内発的・自発的学び」と「外発的な教科教育」の2つの極のあいだをゆれうごいているのが現在の教育論議となっているようにみえる。学校教育は学ぶことが未来への投機となるような安定した社会を想定し、制度そのものが長く継続されるという前提でつくられてきている。そこで、制度疲労をおこさず、自明のものをうたがうことや変化する状況を敏感に察知する感受性を研磨していきたい

 

2歴史、未来を選択するために過去を認識する

 震災以前と震災以後では事実の見方が変容するように、「歴史は繰り返す」のではなく「いつ」「誰が」などの要素によって様々に変化し異なる反応をしめす。それゆえに、歴史の「事実」(基本的な思考枠組み「いつ・誰が・何をおこしたのかを覚える・知っている」こと)を把握しておくことが重要となる。

 歴史は人々の関係性や環境や社会との構造やしくみの中で生起されており、歴史をしることが社会的な関係の動向を把握することにもなる。しかしその中から何を取捨選択するのかといったことは人々の解釈による、つまり現在が過去の視角を決定する。したがって、歴史を学ぶ時、私たちは常に現在をみつめる視点をゆうしていないといけない。現在から見た関心をもっていなければ、歴史的事実を選択することはできないからだ。現代への関心がなければ歴史をみることもできない

 また歴史を学ぶさいはリアルな想像力が要求され、具体的な想像力をもつことで現実の世界もリアルに把握できる。また「知っている」ということが大きな武器になる歴史認識と同様の事態だと予測される場合に、選択肢が変化するからである。

 

3日本語、日常の言葉を客観的にみつめなおす

 「知る」と「わかる」、「勉強する」と「学ぶ」の言葉を比較しながら;分析していく。「知る」は表象上にある存否を回答するだけで、「わかる」は「もともと存在する事柄の実態、その内容・性質・価値・原因・理由・結果、といった事実、を解すること」で、「意識の中に存在しない対象(未知の事柄)が「わかる」ことなどありえない」のだそうです。「あのひと、だれかわかる?」という問いには「その人物を意識ではとらえられるが、具体的にだれなのか、どこに住んでいるのか、その人物の実態をなんらかの手段でつかむことができるかどうかを問題にしている」。あと、「調べればわかるよ」という言葉にあるように、「実態をとらえる手段(調べる、きく)が返答される」。「知る」は知る手段が問題にならない。

 などなど。おもえば、「わかる」という言葉が授業論でつかわれるのもなるほそどういう意味があったか、と学んだ。本当に知ったとはいわず、本当にわかったというのは、「実態をなんらかの手段でつかんだ(身につけた)」という含意があるからなんだろう。また「知る」よりも「わかる」は否定形とむすびつきやすいということで、「わからなさ」によりそうイメージも付与されているのかも。

 

4社会、「常識」をときはなち、新たな可能性を拓く

 「社会」という言葉は西欧の概念を造語したものであり、日本においては和魂洋才の精神で生活とはきりなされた「社会」(学校)と現実の「世間」とは区別されて浸透していった経緯があるそう。西欧の「社会」では集合体そのものを意味する「世間」にくわえ、「個人」の集合体という含意があるよう。

 

自分としては、歴史のところが一番おもしろかったようにおもう。「学ぶ」ことや「知る」ことの原理をしめしてくれていて、これまで本書が指摘していた「学ぶ」ことをつなげて集約してくれるような印象をうけた。

 

「学ぶ」ことについて考えたいとき、この本をもう一度てにとってみようとおもう。学ぶときに「何を」「どのように」学ぶのか、セットでみていくことが大事なのだなぁ。

 

個人的には3の「わかる」についての分析も興味深かった。