TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

最近、ぼんやりとかんがえていたことの整理(現代の学び方)

 

『体育授業を学び続ける』という本をよんでこんなポイントに目がむいた。

 

それは、紅林さんの2002年の調査で、15年間において教師の同僚性が変容している、ということだ。

 

1984年から5年ごとに実施した調査で、「自分の教育実践や教育に対する考え方に影響を及ぼした変化を生みだした事柄」の中で、自身の成長に肯定的な意義を認めている項目として、近年増加したのは「職場の雰囲気や人間関係」だけであり、「学校内の研究活動」と「先輩同僚教師の個別的アドバイス」と「所属校での研修」の3つに明らかな減少傾向が見られた、そうです。

 

さらに、「実践上のゆきづまりにたいして支えとなっているもの」として指摘の多かったものは、「自分の努力」が一貫して高く、「専門書・雑誌などからの示唆」が15年間で徐々に上位にくるようになり、1994年段階で上位にあった「経験豊かな年配教師の励ましやアドバイス」が1999年調査で上位3井から姿を消すとともに、「教務や学年主任の励ましやアドバイス」が上位になった、そうです。

 

これらの結果から、紅林さんは、教師の同僚性といっても、「学校内の研究活動」と「先輩同僚教師の個別的アドバイス」と「所属校での研修」という具体的な協同関係から、「職場の雰囲気や人間関係」といった漠然とした協同関係を重視するように変わってきていると指摘しているそうです。

 

木原さんは「距離感のある同僚性」と表現しています。

 

そんなところをよんでいて、ふとなんとなく関連しそうだな〜とおもったことがあります。

 

それは、スポーツの多様化と個別化・周辺化(ミニコミュニティー化)がすすんでいるようなきがする、ということです。

 

これまで地域スポーツといったら連盟に所属して、自治体・地域レベルでの活動団体が組織されていたとおもいますが、昨今では連盟に所属せず、個人同士のつながり、「仲間」関係の中で親しみのある人同士でのゆるやかな活動団体がつくられることが増加しているのではないだろうか。

 

ゆるやかなというのは連盟に所属した団体に半参加状態もふくんでいます。

 

わかりやすい例だと、ジョギング・ランニングなどは自分の走りをデータ化する機材が流行しています。お手軽に自分のペースでジョギングやランニングをたのしむことができていますし、そういう層は増加傾向にあるのではないだろうか。

 

これまで「走る心地よさ」をあじわうことに加え、「健康のための」という理由では体重や体調や日頃の生活リズムの安定化などによって成果がみえてきていたのですが、「自分の走りをコントロールするたのしさ」についてはタイムでしか計測できませんでした。しかし時計に内蔵されたペースメーカーや心拍数の変化、距離、といった自分の走りのデータが簡単にみちびきだされ、それらが活動の成果や目標の個人設計をたてやすくさせています。

 

また、インターネットで全国のラン友とゆるやかにつながったり、情報交流・共感をすることができます。

 

「インターネットを駆使すればある程度1人で成長できる(かたちにすることができる)」という実感が現代ではもつことができるのだとおもいます。

 

さらに、そうしたスポーツの情報交流の多様性が、社交の場としての新しいニーズをうんでいるようなきもします。多様な会社によびかけて名刺交換をしあう朝ランや夜ランなどのスポーツ活動における交流の場が首都圏でおこなわれている実態もあるようです。

 

それは「ゆるやかなつながり(情報)がお金になる時代」を象徴しているようなきがします。

 

スポーツはゆるやかなつながりをうむよいツールです。基本的にみんな学校教育で体験しているし、運動部活動やサークル活動をとおして得意不得意があり、運動におけるコミュニケーション能力はそれなりにみなもっているわけです。そしてみんなが経験しているからこそ、そこに差異をつけることもできるでしょう。

 

こうした時代の積極性と消極性の両面をどうとらえていけばいいのだろうか。

 

ゆるやかなつながり(仲間関係、ソーシャルネットワーク的関係)が成功失敗を左右する時代、ある程度個人での情報収集・成長が可能な時代、積極性はやはり「多様性・総合性・汎用性」にあり、消極性は「浅薄性、非中心性(周辺性)、個立性」ということになるのでしょうか。

 

でも、グローバル化が世界的事実となり多様な文化情報が周囲にあふれるとともに多忙化がさけばれる現代、あゆれる情報野中でどのようにセルフマネジメントしていくかということを考えたら、やはり前者のスタイルがもとめられるのでしょう。多様性をみとめるからこそいろんなことをやりたい、しりたい、といった欲求が高いのかもしれません。横にひろがる欲求がたかいともいえるでしょう。

 

逆に1つのことにこだわる存在は、尊敬はされますが、実際にはそういう人はあまりみない。特に中途半端な場合は見極めの弱さを指摘されてしまいます。もっとふさわしいことがあるとかなんとかいって。そういうゆるやかさの許容はあまりないのかも。

 

多様な文化を吸収し柔軟で豊かなコミュニケーションをとれる人ほど尊敬される傾向にあるようにおもいます。

 

 私たちは、「満足」がひくくなる可能性もあります。「かじり」はするけれど、「本質」を問う姿勢が十分にみにつかないのかもしれません。

 

ありきたりな分析ですが、スポーツのありかたが変容しつつある時代にきています。

 

このあたりをもうすこし丁寧に分析していく必要がありそうです。

 

学校で育成したいスポーツを組織・運営する自治能力のありかたも、かつての連盟運営モデルだけでは現代のスポーツの多様性においついていけないのだろうとおもいます。

 

また話はもどりますが、若手教員の学び方も変容しているでしょう。

 

自主サークルのつくり方が変容しているようなきがします。

 

研究団体に所属せずにその教材の考え方やアイディアを理解する。

 

組み立て方をある程度理解できれば、自分なりに工夫をして実践づくりをすることができるのだ。

 

今は本とかネットで情報は簡単に手にはいるしなぁ。

 

そういう人だからこそ、どこかで「そのままだとこういう教師になるよ」「こういうことが学べないんじゃないの」ということをみにせまってふっかけられるだろうか。

 

若手教師の成長プロセスをみて、自主サークルでの学びの独自性、いや固有性を自覚していく必要もありそう。

 

おもいつきですが。ん〜な〜んかすっきり整理できなかった。教師の学び方のこと、スポーツのこと、時代のこと、自主サークルのありかたのこと、などなどいろいろテーマがあってあんまり有機的にクロスさせられなかったということか、またの機会をつくりたい。