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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

映画「世界の果ての通学路」をみる。「15メートルの通学路」をよむ。

読書ノート

今日もかりてきた映画を視聴。

 

この映画は

 

モロッコ、インドネシア、ケニアなどで、22キロの大地を徒歩や馬で命がけでかよう子どもたちをおったものである。

 

仲間や兄弟をいたわりながら長距離にわたる過酷な通学路をかよう姿がえがかれていました。

 

印象的だったのは、彼らの生活を宗教心がささせていたこと、そして宗教心によってかれらの自立した思考がはくぐまれていたことである。

 

道は過酷で何がおこるのかはわからない。出発前の祈りやお守りにこめた想いには人間本来のありようを感じ、むねがあつくなった。

 

また日常生活では大事な役割をもっており正統的、周辺的に家業に参加しながら、そうした技能や思考をみにつけていることがよくわかる。

 

だから、のほほんとくらしてきた私よりもずっと精神的に自立している。

 

さて、この映画は「世界の果て」だからこそ学ぶこと(べること)の意味を理解している子どもたちをうつしだす。

 

そこには、格差再生産をとめるべく、教育機会をすべての子どもたちに保障すべきだという訴えとともに、今学校にかよえている人たちにかよえている、学べている、学ぶ、意味を問うことがねらいにあるんだろう。

 

その土地に生きる人たちはこれまで土地をえらぶ選択肢はなかったのだろうから。

 

さて、近代文明にたよらないで「22キロの通学路」をかよう映像をみていたら、『15メートルの通学路』という本をおもいだした。

 

この本は先日の中間研究集会の飲み会のときに、現在大阪の院内学校で教員をされている方と話していたところ、その話にはいってきたIさんが、こんな本があるからよんでみてとその教員の方にいっていたのを、自分もよんでみようとかっておいたのである。

 

そのときに作者の名前がでてこなかったようなので自分のケータイで検索していたので、よっぱらっていたけれど履歴にのこっていたことが幸いであった。

 

さきほど、いっきによみおえた。

 

院外学級で指導する中で教師の存在を自問する著者のありように静かにひきつけられるおもいがした。

 

印象的だったのは、闘病中の子どもたちにとって教師はどのような存在たりうるのかという著者の自問である。

 

ご家族への共感をどこまでできるのか、そしてどう接していけばよいのか。短命がわかっていながらも授業をさせていくことどれほどの意味があるのか、著者は苦悩している。

 

ある母親は次のようにのべている。

 

「死ぬ直前まで、Uは、生きて勉強したいと願っていました。授業を受けることは、あの子にとっては明日への希望でした」「病室から教室までの十五メートルほどの廊下が、あの子の通学路だったんです。たいだい学校の先生が国語や算数の授業をやって良かったんだろうか、なんて悩んでどうするんですか」

 

これをうけて著者は次のように考えている。

 

 愚かな質問であった。彼女にしてみれば、娘の最期の数ヶ月を公開で塗り潰すようなものだ。限られた生を十分に生きた。後悔などなく、Uは幸せな人生を送ったのだ。そう思わなければ、彼女の悲しみはよりいっそう深いものになる。

 

なるほどなとおもう。冷静な見方をしている。こう発言することはこういう意味をもつ、という分析はならいたいとおもった。それにしても、闘病中の学習をどうとらえていいものか、確かに難しい問題だ。すぐにこたえはでてこない。いったいどうかんがえたらいいのだろうか。

 

以下、印象に残った部分をれっき。

 

<病弱時教育>

・「闘病中のこどもたちは、生きることにひたむきだ。…病気であるがゆえに生きていることの幸福を理解している、ということなのかもしれない」

 

<教育論>

・「本当の教育実践とは、生徒のありようを見て意図的に働きかけることを言うんだ」

・「明治以来、文明は確かに発達した。医学も建築も、…進歩した。けどなあ、教育はどうだ。前に進んでいると言い切れるか」

 

 2つめのものは、なるほどとおもった。たしかに、教育の進歩とはどういうことをさすのだろうか。

 

<教師論>

・(新任教員の頃)「自分の駄目なところや弱さを自覚したときから、やっと教師の仕事が始まるんだよ」

・(卒業生からの手紙をうけて)「喜ばしい手紙だったが、それは(無数の傷つけてしまったかもしれない生徒の存在)を感じさせるものでもあった」「知らないままに、長く深く残る傷をつける場合もある。それが我々の商売なんですよねえ」→「今ごろ、初めて気がついたの?…そんなのは、常識以前の問題なんだけどなあ」

・「それなりの夢や希望を持って教師になったであろう彼も、時代と、暴力を黙認する風土しか作らなかった先任教師と学校の犠牲者だった。持っている豊かな知識を生かせる環境であれば、きっといい先生になっていたのだろう」「いま教師は、生き方を問われ、ときに精神を病み、自ら命を絶つことすらある。希望が見出しにくく、『見返り』の少ない仕事だ。本当に好きでないならば、やらない方がいい。不確かな、形にならない不安感があった」

 

どれもびびっときた。そして最後のものはなるほどなとおもった。環境や社会的要因を考慮する視点をもち個人の尊厳を尊重しつつ問題視している。また「見返り」の少ない仕事だ、という点、どういう意味をもっているのだろう。どんな「見返り」をのぞんでいるのだろうか。

 

<教師像>

・(看病する祖母に)「自分はこの人の悲しみや苦悩を、本当に理解しているのだろうか」「祖母の本当の気持ちは今もわからない。ただ病気で入院する子や孫を持つ人たちに、声高に教育や子育てを語るような教師にはなるまい」。

・(もともと優秀な子が、次第に授業放棄していく場面)「重い病気であると知らされて間もない中学生が、教師の励ましのコトバで授業を積極的に受ける気持ちになっていく。そんなことが本当にあると思ってたのか」「生徒の戸惑いや不安や悲しみを、自分のちからでなんとかしてやれるとでも考えていたなら、ずいぶんと傲慢で愚かなことだよ」

・教師は同行者。大半の教師は、欠点も多く持つ平凡な人間だ。そんな普通のひとびとが「自分は『信頼できる他者』なのだ」と独りよがりの錯覚を抱いて教師コトバを連ねてこどもに迫っても、その先にあるのは何もかわらぬ現実か増幅した不信くらいのものだろう。「信頼できる他者」には結果的にそうなったということで、予め教師が意図することじゃない。

 

これらの文からはやはり、何にたいしてこういうスタンスがうまれているのか、という点をもうすこしかんがえたい。教師の「傲慢」な態度は、子どものありようをみえなくするということでもあるだろうか。たとえば、闘病中の(死とむきあう)子ども・保護者のありようから出発しなければならないし、彼らにとって、制度上の教育・子育て論はあてはまらない、論から出発するとむきあう人たちのありようがみえなくなってしまう。そして死とむきあう子ども・保護者を前にして、教師の存在は小さな存在である、ということなのだろうか。

 

 

 以上、著者は様々な問題提起をしめしてくれている。

 

著書にえがかれたように、まず「生きていること(幸福)」への理解があり、次に映画にしめされたように「学べていること(幸福)」への理解がある。

 

闘病中の子どもは死を前にして学習とはどのような意味をもつのかをかんがえさせてくれる。また「生きること」「ゆたかな生活」と学習の関係についてもである。

 

映画では「生活を豊かにすること」が直接的に勉強の目的となっている。かつて学べていない社会が前提としてある。

 

学校の勉強といってもきわめて広義の意味をもつことがわかる。

 

映画と本をつなげてかんがえようとおもったけれど、後者の問題提起することにひっぱられてしまい、十分にクロスしてかんがえられなかった。

 

まとまらないが、今日はここまで。