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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

映画「12 years a slave」をみる

読書ノート

ふと映画をみたいなぁとおもいレンタルにいった。

 

最近、ちょっとおちつかない日常だったので、少し気分転換もかねてのこと。

 

日本語のタイトル「それでも夜は明ける」をかりてみた。

 

この映画、とてもいい映画だなとおもった。何か問題を解決するといった映画ではなく、1980年代前半の奴隷と奴隷を雇う側のリアルな実態をえがきだしていて、(失礼だが)誇張とかんじるところもなく、身に迫ってうったえられてきた。

 

ちょっとしたシナリオを紹介する。

 

北部で自由奴隷証を保持していたソロモン・ノーサップであったが、ある日だまされて身柄を拘束され奴隷売買され南部に輸送された。

 

南部は黒人奴隷のあつかいがひどいようであった。

 

まずからだを錠や縄でしばり、服従をせまる。がたいのいい黒人を細身の白人が服従させ、黒人はいつしかいわれるままに。

 

奴隷ショップなる場所で売買される。

 

奴隷は雇用主のグループでたらいまわしにされ、さとうきび畑や綿畑などを収穫する仕事をさせられる。

 

毎日どれだけの収穫量があるのか重量を個人換算し、平均値より下であればむち打ちをうける。

 

その他、人間が黒人奴隷という道具化され、モノとしてあつかわれ、問題があると「いのち」を簡単にうばわれてしまう実態がえがかれている。

 

また一方で、白人の雇用主も黒人奴隷の一部の人に愛着をもつようになり、それが異性の場合は、婦人との亀裂をうみ、複雑な関係となる。しかし最後には黒人奴隷がいつも責任をおしつけられ、拷問をうけることになる。

 

徹底的に暴力で支配された世界、モノとしての人間をあつかう末端の考え方だ。

 

今まで奴隷ということはいろいろな話をきいたが、やはり映像として視覚的情報をかいすと非常につらいものがある。

 

リアルに奴隷制の問題とかつて人間がおかしたあやまちをしめしてくれた映画に感謝したい。

 

 

人間を「徹底して」労働力商品・性処理商品としてモノ・商品化することで、同じ人間でも信じられない世界で生活をおくることとなる。

 

人間をモノのようにあつかう視点には注意が必要だ。

 

最近ちょっと考えていたこととちょっと関連しそうなので、話はそれるがまとめてみたい。

 

人間の「身体」とは「いのち・人間性をもつ所与としての身体」と「換算可能な労働力などの所有(モノ)としての身体」という2つの特性をもつ。

 

「身体」はこの2つの世界の中間にあり、どちらにもなるというとことが重要な原理だと考える。

 

一見後者はよくないことにうつるが、竹内さんの「能力の共同性」論の背景にある『弱者の哲学』には次のような見解がしめされている。

 

 

それは、「いのちや人間存在としての尊厳」をまず承認する、その上で、各人の特性は本が所有する関係にあるとする考え方である。こうすることで、まず個人の人権が保障されるとともに、特性については個人の尊厳と一定きりはなしながら社会的保障を問題にすることができる。個人に責任をもたせないのだ。こうして「障碍をもつ」というフレーズを大事にしていこうと竹内さんはよびかけている。

 

つまり、所有としての身体とはそれ自体が問題になるのではなく、所与としての身体の両面からの検討がなされることでだれもが豊かにいきる権利を社会で保障しようとする考え方を確立することができるのである。

 

問題は「所有としての身体」だけで、人間の「身体」をあつかわないことだ。

 

その末端が奴隷制度だろう。

 

今日でいえば、アンジェリーナさんの癌予防のための乳房切除・再建手術や、「豊かな生活」をおもい自決したブリタニーさんの話などは重要な問題提起をふくんでいるとおもわれる。

 

でも、映画にはやはり奴隷であっても人間性を大事にする人々がわずかではあるがえがかれている。そういう人間らしさもきわめて禁欲的に、非常に間接的にしめしている点でやはりいい映画だなぁとおもう。

 

人間の「自由」とは、「いのち・尊厳」という人間存在としての地平で語られるべき問題で、その見解ぬきに1人あるきさせてはいけないのかもしれないなとも。

 

まなびました。