TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

民教連集会その2・竹沢講演(子ども理解・子どもの気持ちに寄り添う)

2015,4,26、竹沢さんの次の講演をきいてきました。

 

実践につなぐこども理解—「気になる行動」からその子の、屈折した願いをくみ取る—

 

です。

 

のっけからやられました。

 

 障碍児教育を推進する際の哲学は「人間のめんどくささの中におもしろさをみつける」

 

だそうです。

 

以下講演の内容をかいつまんで紹介したいとおもいます。

 

1.めんどくさいといっていいのか。

  最初は確かにめんどくさい。でもかかわっていく中でこの子はこういうこどもなんだというのがみえればよい。

 

2.子どもの興味をみたしてあげる時間をつくる努力をすること。

 

 Hは廊下に矢印がかいた紙がはってあってそれをたどってきた。いきつく先は会議室。中では若手教師の研修がおこなわれていた。「すみません。うちにはこういう子がいるんです、きいてていいですか」といって中にはいり傍聴者となる。するといつしかなんだおもしろそうだったけれどここはつまんないや、とかれはでていく。こうして一呼吸入れるのだ。よく動き回る子どもを「多動」といってしまえばみもふたもない、「好奇心旺盛」ととらえたい「好奇心をいっぱいにみたしたら次にいく」、これは自然なことだ。他にも心肺蘇生法に興味をもったらやらせてみる、やってみるとなんやこんなもんやとまたすっといく。これをもしだめといったらそのへんにあるものをなげちらかしてしまう。そうじゃなくて、こどもって自分で判断して動いていくものだから、それを尊重していきたい。

 

2.障碍のある子の発達を通して、人間を深く学ぶー子育てのキーワードは「安心と納得」ー

 

(1)Mのことがわかり、Mの見方がかわる。

 Mは「上目遣い」で気弱そうで、Tがいくところにずっと「ついてまわる」、男子トイレまでついていく。Mは運動遊びの時間で「みんなと同じ動きをとれない」子だった。4月にかいた絵はぐちゃぐちゃ「かけない」。こうして、パッと見たときにはまず気になるところが目につく。でもそれが次第につながってきて1つの意味がみえてくる。

 

 ある日Mについて保護者から、「この子は生まれたとき880gだった。命は短いとおもわれたが、ここまで成長した」ときかされたそうだ。「Mはうまく言葉も話せないしコミュニケーションとれないのだけれど、今こんなに立派に成長している」。竹沢さんはMの生育歴をしって親に共感し、Mへの見方を変容させた。

 

(2)人とかかわりたいけれどうまく交流できないとわかったからこそ、寄り添う決意をした。

 そしてまたTのそでをつかむのは意味があった。幼稚部では障碍をもつ子への対応がなく、ついてまわっていた。小学部にきたらつかまえられる子が2人しかおらず、必死だったのだ。またMが動作のまねをしないのは、「みんながねることがプレッシャーになって、Mにとっては急に不安になり一瞬たじろいでしまう」と考えた。でも、意欲を育てればいい。そしてその意欲は共感的な人間関係のなかからうまれてくるはずだ。そこで、竹澤さんは大きな身振りでリアクションをとり感情表現をゆたかにするよう心がけていった。

 

(3)Mの気持ちがみえてくる。

 ある日、友達の動きをまねしないMがテレビ番組の動きをまねしている場面をみた。さらには絵本をみたら「おちおちはなはな」と言葉を発していたという。そうか、Mは人と接することが苦手で、むこうからやってくる刺激によわいのだ、そう考えたそうである。そして、Mの気持ちによりそうようにしてあげるといいのかもと考え方を変えた。

 

 こんなこともあった。プールでは浅いプールでフォークダンスでして水慣れしてから深いプールにはいる。そしてそのフォークダンスに普段はこうした活動に参加しないMがまざっていた。それは浅いプールでおどったら深いプールでやれるという意欲に支えられてのことだ。集団と文化とのであいの中で子どもは発達するということをしめしている事例だ。

 

 またMははんかちおとしではまちがってもはしってこない友達におとす。それはそのこの特徴をつかんでいるということで、まさしく1人と人間関係がふかまっているということがはんかちおとしのところでみえてきた。おかあさんは幼稚園では笑顔がなかったといったけれど、それはMのてんぽにあっていなかったり安心して自分がだせる集団がなかったらできなかったのだ。

 

(4)対義語で世界を拡大した理由は「発見のよろこびがあったから」 

 おもしろかったのは、Mが「大きい」と「小さい」をおぼえるようになったという話だ。Mがなんでこの言葉をつかったかというと発見のよろこびがあるからである。教えてもらったからではない。太った先生は「大きい」と判断する。でも、背が高くて細い先生は、…おおきい?と躊躇した。自分のお腹は小さい、友達のおなかはおおきい。そうやって言葉を多用していた。言葉は発見の喜びとともに、そこでうけとめてくれる、きいてくれる他者の存在が必要になる。これはつまりいいたくなるような生活があればしゃべりたくなるということでもある。

 

3.Hのこと

(1)話したくなる気持ちに寄り添う。

 Hは体育館の縁の下にはいるのがすきだった。こうした場面を、竹沢さんはみつけ、絵を描く。おかあさんはもちかえってきた絵をみて「なんやこれは」ときく、子どもはもうここぞとばかりに説明をする。いいたい子どもの心境(学校生活)があって、それを意識させる手立て(絵)があって、会話がなりたつのだ。

 

 ただ、いいたくなるような生活づくりは、たいていは遊んでばっかりとおもわれてしまう。これに対して「いや言葉をうみだす土壌をたがやしているんだ」と反論するという。

 

 またこんな質問もされた。障碍をもつこは、「ある」と「あった」をどっちがはやくおぼえるか、と。こたえは発見の喜びがある「あった〜!」がはやいのだ。感情と結びついているのだ。

 

(2)子どもの「今」(体験している世界)によりそう。

 ちなみに、感情ときりはなされた言葉を教師は子どもにあたえてしまう場合がおおい。例えば、ある子がころぶ。このとき解説してもらいたくないのに、教師はこうこうして転んじゃったねと解説をしてしまうのだ。その子は今いたがっているんだから「いたいよねいたいよね、転んだからね」と共感してほしいはずだ。ある日授業参観をしていたとき、校舎の桜に風がふいて窓が花びらでまっしろになった。女の子が外にいこうとしたら、おかあさんとめて、はなびらはなびらと説明する、でも本人はこのまっしろにわーととびこみたい、何がおこっているのかはあとから解説すればいいのだ。

 

4.ふたたびMのはなし。

(1)子どもが「わかる」=子どもの「願いが」わかる

 しばらくして関係ができあがっていた。休んでいるSの牛乳をのんでいたら、Mが「鬼、め、鬼、め」といい、また「お〜SちゃんSちゃん、こっち」とよぼうとする。つまり、ユーモアをもって脅迫をしているのだ。こうしてMには自分をつきだすという人間としての成長をはたしてもらいたい、だから子どもがわかるとはこまかなことがわかるのではなく、その子のねがいがわかるとかんがえたい

 

 この点から発達障碍をもつ子どものとらえかたを1つあげるとしたら、「問題行動を発達要求ととらえる」ということである。ほんとは願いがあるんだけれどストレートにその願いをだせないわけで、くみとることが大事。「こまった子」は「こまっている子」なのだ。

 

(2)困っている子の「願い」と「困難さ」とむきあい、「願い」に目をむける。

 またそのこまっている子はときにきらっとひかるときがある、そういう姿をみせるときになぜそうするのかをかんがえたい。たとえば、Sはしょっちゅうシャツをかんでいた。新しいシャツも3日でメッシュのシャツになる。でも遠足でバスにのったときにはかまない(きらっとひかる)、外に気持ちがむいているから。いかに外に気持ちをむけるかが大事なんだときづく。

 

 SYはいやなことがあると頭をぶつけるなど自傷行為にはしる。トイレにいりびたり、水が流れるのをよくたのしんでいる。でもある日おにごっこをやって、あたまをがんがんしないことがあった。鬼になったときKをみた、すきなKをみたら頭をがんがんしない。つまり、自閉という障碍があるというために、おもいがつたわるような力を十分にもっていなかったのであり、それをつけていけばものをなげたり自傷することがなくなると竹沢さんは考えた。

 

 自傷と関連して「ゆびしゃぶり」は感覚が敏感な指と口から自分に刺激をいれることでその世界にとじてたのしむことができる行為となっている。これがでるのが2歳児だ。1歳は自分のおもいがそこまででない。5さい6さいは言葉があるからかまない。2さいの子はうまくつたえられずかみつきをする。かみつきをどうやめさせようではなくてその子の気持ちがいかに相手に伝わるのかにウェイトをおくことが大事になるのだ

 

 なんでSはKがすきか。ある日Sは算数問題をまちがえてとびだして金槌をつかって石をわっていた。そこでKにいかせた。いつまでももどってこないからみにいったら、Kは「あの石もわったらいいんじゃない、この石もいいんじゃない」とSに指示をしていたのだ。そして教師がきたときにはっとSにあっちいこかといい、そうするとすーっとSはかえっていった。つまり、KはSと世界をともにして、一緒に遊んで、その一緒の世界のままにあっちにいこうといってSをのせていったのだ。無理やりSをSのいる世界からひっぱりだそうとしないのだ。

 

(3)「納得」を大事にする。

 指導とはその気にさせると城丸さんはいったようだ。竹沢さんにするとそそのかしてそのきにさせるということだそう。たとえば、リトルワールドにいった際、Sは竹澤さんのそだをつかんで列からはなれていく。これはあぶないとおもい、他の先生に財布をわたした。Sはたべものにはめがない、案の定自動販売機にたどりついた。竹沢さんは払おうとポケットの中から財布をだそうとみせる、気持ちはあるけれど金がないとズボンの袋を全部ひっぱりだしていった。するとSは納得しあきらめるのである。

 

 発達論では2さいの子は「何かをいってきたら、ああいいよとまずは作業をとめてかかわろうとし、そのあとでむりだということをわからせることが大事」だといっているそうだ。何かしながら言葉で無理だといってもだめ(神田秀雄)。

 

(4)シチュエーションを遊びながらつくる。

 Mは下校時になかなか家にかえらない、きりかえがわるい。このとき、相棒の先生としばいをする。相棒の先生にくるなっくるなって、一歩すぐさがってまってくれ〜とあそぶのである。それをみせてからMにも同じことをやるとMはくるな〜とかえっていくのだ。

 

5.問題行動を発達要求ととらえ、そこにひそむ子どもの願いに共感的な理解を示していくこと。

 

 よく子どものいいところをみつけろといわれるけれど、問題行動のほかにいいところがあるんじゃない。問題行動そのものの中に屈折した願いがあるととらえたい。本当はまっすぐおもいをつたえたいけれどうまくつたえられないからものにことよせてわがみにひきよせて表現してしまうのだ。でも問題行動は発達要求だからとほっといたらだめで、頭をがんがんやっているときには、Sやめろという。長期的対応と当面の対応を2つ考えておきたい。

 

 自閉の子は視覚優位だといわれる。ちょっとまってとおもう。バスや電車にのっているとき、乗務員がしゃべる、電光掲示板をみる、このとき、音は人のペースで情報がやってくるけれど、目で確かめるのは自分のペースだ。情報をきっちりと確定するのは目の役割で、視覚優位とは何も自閉の子だけじゃない、むしろ納得優位、納得するから行動するとかんがえたい

 

6.中心的な課題に教材をもちいて手厚くはたらきかける。

 Nはいちばんじゃないとあばれる。おにごっこをやった。一番に鬼をやろうとするのがN。しかし一年生はいってきたばっかりでその事情をしらない。Yは「ぼく一番」とNにうったえる。Nはしばらくからだをふるわせる。そして最後にはゆずった。5年生だから1年生にゆずろうとおもったのだろう。もちろんおにごっこはやらなかった。こうしてNは一番でなくてもいっかとおりあいをつける力がついていた。くそ〜とおもっても教師の説明をきく、きくとできるようになる経験をつませていた。

 

7.「できる」以外の豊かさも

 とある自閉の子は作業所にいっていたが、なれづにもんもんしていたころ、石をトラックになげて解雇された。その子は在学中に連立方程式でできるできると賞賛されていた子だった。でも実は人とおりあう力が十分そだっていなかったのだ。今をめいいっぱいにいきることが明日をいきる力になる。能力の発達は、個別の指導でもできるようになるけれども、優しさとか積極性とかは集団をくぐりぬけてはじめて発達していくとみておく必要がある。個別でみにつくのは能力。また画一的教育でなく、ゆきとどいたものが教育。

 

 集団と文化にであわせることでも能力発達する。Yは自閉の子で、数がわからなかった。しかしあるときにスーパーにいって、兄のお菓子と自分のお菓子をかうようになった。そして数がわかったとき、自分のお菓子の方が兄の袋よりも多い量をいれるようになったのだ。数が腹のたしになったのだ。また「ちょうだい」という言葉をおぼえたことも自由な世界を拡大させていった。

 

8.集団の教育力

 これはひきとめる力じゃない。ある日、Tは集会になかなかいかない。そこで年下の子によびにいかせた。中3のわたしが中2の子をめんどうみなくっちゃとおもってこころがうごいた。手くびをもたせると集会までつれていった。依存しつつ自立していくのだ

 

9.元気がでないとき

 小さくても変化がみえるときに希望をもちつづけることができるんじゃないか。Sの家庭ではSが絵入りのビスケットをたべるときにビスケットのえをみてお父さんこれは何なにだねとお話をしながらゆっくりたべれたそうで、おかあさんは夢のような出来事だったと連絡帳にかいてきた。この事実は小さいけれどその中にふくまれる人間的な価値は大きい。またお別れ会のあった次の日、机の上にポッキーがあったのをみつけた。そこへ子どもがやってきてちょうだいといった。かれのての上にのせた。そのとき他の先生がちょうだいといった。するとその子は半分におってわたしたのだ。

 

少6の自閉症をもつ子が、紅白リレーでアンカーになった。今は1点さで総合でひっくりかえさえられる。トップでバトンがわたされた。自閉の彼が二度三度うしろをふりむき、他者を意識して走り抜いた。あのトイレに面倒を見てもらったSはトイレの会社にはいりトイレのめんどうをみるようになった。そしてその給料一ヶ月文で最新のパソコンを母親にかってあげった。いつもSが昼寝中にないていたおかあさんが自慢の孝行息子ですとこたえたという。

 

 私たちは子どもの事実にはげまされて親になったり教師になったりしていくのだ。展望をもてずに職場をさる人がおおいなか、家族・子どもが喜ぶ実践こそその反撃力になる

 

 現代にあってはこういう子どもの姿をしめすことはとても大事だ。人間をできるできないと能力でくぎるそういう時代だ。このこらを世の光に。

 

以上、竹沢さんの講演をまとめてみた。竹沢さんの語り口は子どもの感情や意志を物語るスタイルだ。子どもの気持ちに寄り添ってきた竹沢さんらしい。ジェスチャーもダイナミックでみごたのある講演でもあった。

 

さて、下線をひいた部分は個人的にとっても印象に残った部分だ。

 

どれもすばらしい言葉である。

 

ちょっとだけ竹沢さんのポイントを整理しておきたい。

 

●子どもの見方を変容させる。

 ・子どもの「願い」と「困難(壁)」をよみとろうとする。

 ・障碍特性のとらえ方を変容させる。

 → その子どもや障碍特性では「〜〜ができない」という見方から、「〜〜したいけれど、〜〜できない」と把握している。

 

●子どもの必要(発達要求)に寄り添う。

  ・日常の「困難」の中できらりとひかる場面からその子なりの関わらせ方をさぐっていく。

  ・子どもの「安心」と「納得」をベースにして子どもの「認識」に働きかける。

    教師が多様な遊びを準備しつつも、それらをちゃんと子どもたちが「わかる・納得する」ことを大事にしている。自動販売機の事例などはとっても興味深い話しだ。

  ・「はなしたい」から「はなす」という動機や感情をふくむ「認識」を大事にして子どもの意欲を育んでいこうとしている。

 

  → 子どもの「認識や感情・意志」に寄り添うといってもいいのかも。

 

●教師が子ども理解それ自体をたのしみ、その子どもとの豊かな生活文化をきづいていくことをたのしむ。「人間のめんどくささのなかにおもしろさをみつける」ということ。

 

子どもに働きかけ、その事実に共感し、感動し、教師や親になっていくのか。

 

子ども理解や子どもの気持ちによりそうということの意味を考えさせてくれました。竹沢さん、ありがとうございました。