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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

管理職にかいならされた方(?)とであう

愛知支部以外の研究活動

今日は昨日であった小学校教員の方の話です。

 

東京でなかなかおおきな教師の研究会があるのですけれど、その会の飲み会できいた話です。

 

その方は「自分はダメな教師だ」といいました。

 

なぜなら、「子どものことを好きになれない」し、「ほめかたやしかり方の指導がうまくできない」ということでした。

 

で、いろんな方々がいらしたので、いろんな質問をしながらどういうことなのか確認していきます。

 

おおきく2つの話がきになりました。

 

1つは、「指導書通りの指導」「管理職にいわれたままにする指導・評価」でした。

 

授業は指導書通りに質問して必要な回答をひきだしていく。子どもたちにも半ば強めな態度にでることでへんな回答がでてもできる子がちゃんと軌道修正してくれるという。

 

さらに管理職がこうすべきだといったらすぐにそうしますとこたえ、そのような指導をするという。

さらに評定のつけ方も指導され、態度についてはAのこがあまりいないものとなったそうです。

 

「私はいわれたことはすぐできるタイプ。でも今の職場はやりたいようにやってごらんという職場で、こまっています」といいつつも、結構しばられている印象です。

 

でまた1つは、自分のある変化を話してくれました。

 

それは管理職からいつも「指導がなってない」と言われ続けるそうで、当初は管理職にいわれ、隠れて涙を流すこともおおかったようですが、いつしか管理職があまりにも指摘ばかりするのでその場をなんとかごまかして涙を流すことはなくなったと。

 

でもいつも「指導がなっていない」と言われるので、自分のやり方がよくないもの、できていないものという印象を常にもっていたのでした。

 

また「自分はできない」と思わされていたからこそ、管理職のいうことをきいていこう、そして「管理職にほめられるようにがんばろう」とおもうようになったのでした。

 

また、その方は別の管理職の方を尊敬している様子でした。その方にいつしかほめられたいとおもうようになったそうです。

 

 

「学級通信も子どものためではなく自己満足のためであり何より管理職のためなんです。子どものためなんておもっていません。結果的に親や子どもはよろこんでくれていますが、ちょっとひいてしまいます」。

 

そして、驚くことに、そのいつも否定されている管理職と2人で飲みにいったりするそうです。そこでも指導の話になります。

 

つまり、その方は否定ばかりされる管理職と自分が尊敬している管理職がいたようで、特に前者の管理職に飼いならされてしまっていたんだなとおもいました。ダメダメいわれて、支えられる体制がなかったから、もういいやと自分をすてて他人のやり方をとるようになって、他人のやり方でまた失敗してダメだしされることでまた自分をだめな教師だと強化しているのです。おまけに2人でのみにいってもダメだし、これはパワハラだし、管理職はおそらくその方が反論しないし明るいからと誤解もふくみつつ、「管理職」たるイメージをおいかけてしまっているのではないか。指導するということのイメージを味わわせてくれるその方にのみぶつけているようにおもえます。苦しいだろうなぁと。でもひょっとしたら管理職同士でもなんかあるのかもしれませんね。

 

そしてまた質問がとびます。「あなたは子どもがかわいくないといっているし強い指導をしているようだけれど、あなたがされていることを子どもに同じことしているんじゃないの?」

 

そんな話がつづいて、ある話がでました。

 

ある日、自ら率先して飼育係をした女の子をほめたときに、もっとおおげさにほめなければならないといわれたそうです。

 

で、どうやってほめたの?ときいて、そのほめかたをきいたら別になにも問題はない。

 

自分ができるほめかたではないとうわっつらのほめかたになるし、それでは子どもには想いがひびかない。そのほめかたでいいじゃないか、あなたらしい表現でいいんだ、そんなことをいったら、その方は「いいんですか、ほんとにこれでいいんですか」といいました。

 

自分ではない何者かにならなければならない、そんな意識に支配されていたのでしょう。

 

今おもいついたことですが、その方に次のようにといかけてみたい。

 

あなたは結局、どうしたいの?どうなりたいの?と。

 

おそらく、「管理職にみとめられたい」と再びこたえるでしょう。

 

そしたら一度、こういってみたい。

 

その管理職の人が尊敬する教師というのは、管理職がいうとおりにする教師なのか、管理職の理想とする教師像とぴったりくる教師なのだろうか、と。

 

ひょっとしたら管理職とは異なる教師像であっても、のびのびと自分らしさをいかした指導を展開し、子どもとむきあう姿こそ、対等な関係がつくられていくだろうし、尊敬がうまれてくるんじゃないかともおもうのです。

 

ぜひ実践報告をして、自分の環境を客観視してほしい。

 

それにしても、そういう管理職にどう対応すればいいのか、おそらくそれはまた次回の研究会での飲み会ではなされることになるんだろう。

 

若い管理職や若い教師をしばる「役割イメージ」。ねばならない、ねばならないとおいこまれ、いつしか自分をすててしまうことになりかねません。生身の人間同士がぶつかりあう仕事なので、ここは大事にしておきたい。

 

学校の外の研究会に所属するということって、やっぱり大事なんだろうなぁ。

 

そしてそういう必要のある方がやはり求めて集まってくるともいえるかもしれない。

 

飲み会での語り合いが重要ですね。

 

 

あこがれる人の理想の人間になる、これってそういえば、以前の若者いいたい放題のシンポジウムできいた話とにているなぁ。

 

ちょっと前の記事から転載。

 

人生についての問いは「やりたいことをみつけよ」というよりも「自分にしかできないことをせよ」という問いの方がひらかれているという坂口さんの主張と類似している。

 

あらゆる「活動」が「自分にしかできないこと」だときづくことは、フランクルのいう「イエスという」ことであり、自らの固有性(名前、私)の肯定にほかならないということだ。"よびかけられる存在”として"固有の活動”を継続すること。そこに「他人との比較」や「比較による自責」といった、ありふれた葛藤がはいりこむ余地はもはやない(斎藤『承認をめぐる病』)。

 

  • ことわれない、について。

 

 実践目標がたかくあの人みたいには報告できないとかんがえてしまう方がいる。私のみのまわりでもそうだ。「あの人のようになりたい」というあこがれはときに「私はあの人には到達できていない」という心理をうむのだ。よくよくかんがえたら今回の登壇者はみな、「すぐれた実践家」へのあこがれをもっている方たちばかりである。

 

 私たちは子どもたちが安心してくらせる・育てるようにすこしでも今の状況をよくしたい、体育でたしかなまなびを経験させたいという「願い」や「問い」を前にしては対等平等の関係にあるはず。そしておおきなところでの「願い」や「問い」はおなじでもかならず「自分なりのかんがえ」があり、それはあこがれのあの人とはちがってくるはずだ。「あこがれのモデル像(形)」からぬけだし「教え−教えられる」関係をのりこえていく必要がありそうだ。あなたはこうかんがえるのね、私はこうかんがえる、というやりとりがふえていくといいのかなぁ。もしくは「のりこえの対象」としてとらえる、これかなぁ。「めざすレールがあこがれの人とつながるこの道しかない」という状況が自分をおいこむのかもしれない。

 

自分がのびたい方向に自分をのばしていく、人間の自由の発揮を大事にしたい(安富さん)