読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

まるちゃんから

読書ノート

これはよく体育授業についての問題提起のさいに利用されるページだ。

 

自分が「まるちゃん」とかくとついついあの陽気で気さくで社交性のたかいあの人を想起してしまうのだけれど、そうではなくて、「ちびまるこちゃん」のことだ。 

 

ちびまる子ちゃんの』第1巻(集英社)にこんなページがはさまっている。

 

 

体育の授業のこと

 

 小学校の高学年ごろから体育の授業がイヤでイヤでしかたなくなりはじめた。中学にはいってからはこの世に「体育禁止令」が公布されればよいと切実に思った。

 

 

とび箱をすれば飛ぶどころか体ごと台にぶつかって箱をこわす。ボールを使う競技ならボールはあさっての方向に飛んでいく。…グループで創作ダンスなどすれば私だけ何かあやしげな…踊りをおどっている…。

 

う〜む。一体、あんなにも私に恥をかかせた体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要な役割をどのへんに秘めているのであろうか。ギモンである。

 

本書にはまるちゃんが平均台の授業で個人演技のテストをする際に、あやうくおちそうになったところを左腕と足をつかってなんとかぶらさがり演技をつづけている様子がえがかれている。そして「こんなつまらならない思い出も、私にとっては数少ない快挙なのである」ととじられている。

 

じゃあ、まるちゃんの記憶からは、どんな問題状況があるとみることができるのであろうか。

 

問い

 ・非日常的共通教育内容(国民的教養)は「平均台テストで最後までねばった精神力(快挙)」のことではないはずで、だとしたらなんだ?という問題。

 

 

 ・現代の体育において日常生活的教育補完機能を考えるならば、それは「子どもの育ちそびれ」への対応だと考えられるけれど、教科としての体育でそれをどう位置づけるのか、という問題。

「補完機能」はあくまで「補完機能」である。第一義的には国民的教養を通した民主的人格の形成を目的とする。もし直接的に補完機能を発揮させるならば、それは教科外で対応されるべきことがらなのか、と疑問をもった。

 

 

 ・ 上記に関連して、体育授業でしょうじる「できなさ」とはどのような要因があって「できなさ」として表出されるのか、という問題。教師は「できなさ」が「恥」として表出されないような授業設定をしていく必要があるはずだ。

 

キーワードをみてわかったひとはわかったとおもうが、今日の文献は、奥平さんの「学校のもつ二つの役割と生活のなかでの教育」(『教育』1980年7月号、国土社)である。

 

あと、竹内さんの「学校教育の目的と機能」『著作集3 学校改革論』も参考にしてかんがえた。

 

そしてそのきっかけになったのは久保さんの『体育科教育講義・資料集』(創文企画)である。

 

久保さんのしかけでは、「まるちゃんあのね」と手紙をだしてみようとある。

  

 

ちなみにちびまるこちゃんの「体育の先生」の説明はこうだ。

 


人物像

入江小学校の体育教師。授業中にふざけている児童を殴る事もある怖い先生でまる子達からは恐れられている。近年は児童虐待が問題になっているためか殴る描写も加減されているが、他の先生と比べると怖い。授業中ちょっと喋っているだけで怒鳴って注意する。

水泳の授業では「プールに跳び込むな」と注意していたが、水を嫌がる児童をプールへ放り投げていた。また中々泳ごうとしない藤木くんの背中を押し、跳び込ませた事もあった。

意外と優しい一面もあり、鉄棒でさか上がりができない小杉くんのために自ら踏み台になってあげていた。ノラ犬に追いかけられるまる子を助けたり、児童がサッカーの試合をした際に審判をしてあげた事も。


服装

着ているジャージは1990年には水色、1991年には緑色、1992年には赤色と第1期では年代事に色が変わっていたが、第2期では赤色で定着している。

 

基本的には暴力的な指導をおこなっている。こういうイメージが付与されるということは、原作者の経験によるものか、社会的風潮によるものであろう。ちなみにこの人物像はだれがつくったものなのかは定かではない。

 

ひょっとしたらこのイメージと前者の体育授業のことでの先生とは同じ人物なのかもしれない。

 

となると、教師の方に問題がないか?とうたがってしまう。

 

そして、挿絵にはまるちゃんのできない姿をみて「ひき顔」になっている先生の姿がうつっている。

 

 でもひょっとしてまるちゃんの「できなさ」をみて「ひき顔」をとっている先生は、きっと作者の心境の投影か、演出のためであって、本当は教師は「指導に困ったり」「危険回避のために焦ったり」しているはずであろうなとおもったりもした。

 

とはいえ、もし「ひき顔」をとる暴力教師ならば、「先生、あのね」、とも問いかけてもみる必要がありそうだ。

 

さて、実は久保さんの流れにそって議論をしてみた。

 

 奥平さんの上記の論文では次のことが結論として提出されている。

 

   ・学校のもつ基本的な役割は2つある。

      第一の基本的要因:非日常的共通教育内容の要求

      第ニの基本的要因:社会や家庭での日常的教育機能の欠落の補完

   ・それらは、社会の歴史的発展段階によって規定されている。

 

  → 学校の存在意義は第1の要因の方にある。「補完」はあくまで「補完」。

 

 例えば、ボール運動をとおして歩行困難者があるいたり上肢をつかって移動したりするリハビリをおこなう。これは「補完機能」をメインにすえたものだ。でも大事なのはボール運動で広がる新しいスポーツの世界を味わうことやそこでのおもしろさを追求することになる。

 

 なので、共通教育内容を追求する過程で「補完」もなされるということ。「補完」も大事にするけれど、「共通教育内容」がメインだよ、というスタンスになるだろう。

 

 となると、

  ・「学ぶ中身のない授業」は学校教育の重要な機能を軽視していることになる。

  ・「学ぶ中身」はその時代の社会における文化や子どもの生活状況をみきわめ、問われつづけるべきものとなっている。

 

 といえる。

 

そして、2つの機能の関係をとうものとして、

 

 学校体育でなぜ走るのか、という問いが提出された。

 

体育ではこの問いを考えることが学校教育における2つの機能の関係をとうことになるだろう。

 

保育で走るのは「おしっこにもれないためにすばやくトイレにかけこむ走力」なのか?(ちなみに、実験結果で、おしっこをがまんさせて走ったらおしっこにいってもいいという条件のもとで走らせたら通常の計測よりも好タイムがでたそうな…)。

 

走る運動能力の育成は、「補完」機能なのか?それとも「中身」なのか?何をこそ国民的教養として学ばせたい中身にすえていくのか。

 

まるちゃんの事例から いろんなことを考えることができた。集団討論はおもしろいなぁ。

広告を非表示にする