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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

「それで人(人類)は生きつづけられるか」(継続性=多様性の尊重)を大事に生きる。

読書ノート

 

今日は2つの本からかじりよみ。

 

2つの本をよんで何をおもうか、おためしである。これはよみたいほんがたくさんあるときにひょっとしたら相乗効果でよんでいけるんじゃないかという発想からきている!

 

中村さん「私のなかにある38億年の歴史ーー生命論的世界観で考える」『科学は未来をひらく』より。

 

この本は現代における「科学」をあつかった本だといえる。それは若者層をターゲットにしたものだからで、若者の「今」にひびく文脈で語らなければ理解されないという意味もあるだろう。

 

「科学」といういかにも普遍的な原理・原則の探求イメージがつよいものを、現代という「社会」の視点からそのニーズをひきだす論調はとても共感できる。

 

 

というか、「科学」のひとりあるきをさけることが本書の目的だから、まさに、といったところか。

 

原発事故で明らかになった20世紀型科学の欠陥」

 

いきなり刺激的だ。

 

20世紀に自分たちが追求してきた科学には欠陥があったというのだ。

 

で、論拠としては「放射能が与える人間への影響については答えがない」ということから、福島原発で露呈されたのは、「すべてのものには答えがあるから、それに沿って行動すればいいと私たちは思い込んでいましたが、そうではなかった」。「本来、科学とは『自然はどういうものなんだろう』『宇宙ってなんだろう』『地球とはいったいなにか』『生き物や人間はどうして生きているんだろう』ということを考えるもの。そうして考えていけば、科学は各自の世界観をつくってくれるはずなのです」「考えることが重要なのです。答えはもちろん大事であり、考えて考えて考え抜けば答えは出てきます。しかし、1つの答えがでてくると、もっと難しくて、でもおもしろいといが生まれてくる。答えをみつけたらおしまいではなく、ずっと考えること。これがとても大切なのです」。

 

ポパーは科学とは「反証可能性」をもつものだといったそうな。

 

これにちょっとにているとおもう。

 

あきらかにしつつ、「ほんと?」、こんな視点もあるぜ、ここからみたらそりゃまちがってるぜ〜という反証可能性がうまれる。

 

ってことは、やっぱり「答えとしての科学」ではない、けれどその限りでは「答え」なのだろう・・・。どう解釈すればいいんだ??

 

いちおう「科学」とは「問い続ける」「考えつづける」営みであり、真実に接近するとともに、さらなる問いが拡張していくものだということはわかった。

 

ちなみにこれは、正直、福島だからこそみえる問題かどうかはあやしい。福島のことであきらかにされたのは「トランス・サイエンス」の問題をどう考えていくのかという村上さんの問題提起の方が納得できる。

 

ん〜、りんごがおちるのは万有引力の法則だ!。これって、反証可能性の問題にひっかかるのかな…。つまり、反証可能性って、すぐにはわかんないんじゃないか? 

 

反証するほどの知識もいる。「ほんとか」という疑いをもって信じろと、そういう話でかたづけられるものでもないだろうし。

 

そういえば、実践でデータをとるのもそうだろうなぁ〜

 

蝕球数はこんなけ!とでた。そういえばこれは「科学」といえるのかはわからない、科学って定義がされていないからなぁ。そこに問題があるのか?まぁいいか。

 

で、ほんとにそんなけしかさわっていないの?

 

というのは反証可能性とはいえなさそうだ。

 

するべきは蝕球数よりも貢献度が大事だ、という反証か?

 

だったら、「科学」(事実)と「その主張」があって、「その主張」の方に反証するということになる。

 

となると、「事実としての科学」と「事実をもちいた主張(解釈)」の2つが反証可能性の対象になるということだろうか。

 

福島原発の事故、染料はこれくらいだ(事実)、それは危険か危険でないか(判断)。その後統計データがでてこれくらいあびたら危険性はこれこれぐらいだ(事実)がでる。でだからこれ以上の人は保証対象にしよう(主張)とか、あなたはあぶない(主張)とかの意見がでる。

 

ということは中村さんがいっている「機械論的世界観」と「生命論的世界観」とはやはり、「観」に着目しているところに注目すべきなんじゃないか。

 

おっと、先をいそいでしまった。ちょっと説明したい。

 

中村さんは「機械」として世界を考える「機械論的世界観」が17世紀以降300年間にわたりつづいてきたと指摘する。ガリレイ・ベーコン・デカルトニュートン

 

それがくつがえされたのが「宇宙」研究だそう。

 

解明すればするほど謎はふかまるばかり。

 

で、「生き物のことを考えるときも、地球だけでなく宇宙全体を考える」ことが大切だという。・・・・?

 

地球上のすべてのいきものの祖先は、1つの細胞だった。

 

海でうまれた細胞が進化し、植物や動物に、そして両生類、 鳥類、哺乳類、人間になった。

 

また5億年前にいきものが上陸してから少なくとも5回は、70〜90%もの種がきえる体験をしているそう。

 

つまり、時間をかけてできあがってきた自然界として地球の出来事をとらえるということ。これを生命論的世界観とよぶそう。

 

機械論的世界観ですすんできた現在の科学技術は人間がこの自然界の摂理の外側に存在するという考え方があった。そうではなくて、「人間はいきものであり、自然の一部である」という生命論的世界観がベースとなる科学をもとう、とよびかけています。

 

で、自分のからだも様々な生命の生と死の壮絶なチャンレンジの歴史がきざまれていることをしめして、生物とはいかに「多様になるか」「つづいていくか(継続性)」を追求するものだとといています。

 

この視点にたって、私たちが「いきものの一員として、自分がどう生きていくかをきめて、どういう社会をつくっていくと暮らしやすいのかをかんがえる。そして、その社会を実現するために必要な科学技術を考える。これが科学の本来の順序だと説明しています。

 

今は技術ありきで、技術のまえに経済ありきとなっていて、社会と生活と思想がないから「どう生きるか」という部分がぬけおちている。

 

そして最後に、「自分の体のなかには38億年にもおよぶいきものの歴史が入っているという事実。それをベースにものごとを考えていく生命論的世界観をもつこと。それを忘れないで、日常生活をすごすようにしていください」と強調している。

 

はい。つまり「わたしのからだにねむる歴史(事実)」を「生命論」の視点からみるように、世界の現象(事実)も「生命論」の視点から「とらえていきましょう(世界観)」ということになる。

 

あ〜なんか初歩的だけど、すっきりしたかんじがする。

 

「20世紀型科学の欠陥」って、「科学的事象への20世紀型世界観の欠陥」=「科学への機械論的世界観の問題」ということになるんじゃないか。

 

だって、「科学(事実・法則)」は一定の手法(条件)のもとでえられたものを一定の枠組み(視点)でみたときの、一定の成果であって、それ自体がまちがっているというのはどうも変だ。

 

とはいえ、中村さんの主張はとても興味深いものである。

 

特に、日常生活を「それで生き続けられるのか」という視点からながめてみよという視点は、なんだか重要なインスピレーションをえられそうだ。

 

原発問題もそうだ。あれは安全か安全じゃないかというよりも、「持続可能性」や「多様性の保証」につながるのかという視点での検討が必要ということだ。原発の材料となる資源は他の燃料と比較してごくわずかだ(小出さん講演より)。

 

原発だけではだめなのだ。他の手段を必要とする。それも期限つきだ。

 

となると、やっぱり木質バイオマスの研究が日本でももっと展開されることがのぞまれる。

 

もちろん長期的な視野で、だ。

 

子どもをそだてるときもそうだろう、この子にどう育って欲しいのか、その育てかたは人類が生き続けることに貢献するのかどうか、むかうところはどこなのか、大きな視点でみていこうということか。

 

さて、今私はビールをのんでいるけれど、それは「人類がいきつづけることに貢献する行為か」。

 

娯楽がないとなぁ〜、でもたしかにのまなくてもやっていけるよな〜

気分転換するって大事だし〜、でもビールを消費するよりももっと消費するべきことがあるのかも〜、募金とかさぁ〜、いや〜でも相対的にみたらビールのむことが仕事によい影響をあたえているかもよ〜、でもその効果は「今」のんだからなのか、おつかれ会でみんなとのむからなのか〜

 

ん〜〜〜日常生活で考えすぎると大変だな〜!無駄なことって長期的にみると大事なことってあるしなぁ。

 

ビールをのむかどうかをめぐっては永遠に反証がくりかえされるきがする・・・。

 

いやちょっとまてよ、その答えは実は自分のビールのみたい欲求にそったもので、完全に客観視したら別に「今」じゃないんじゃないか。コミュニケーションの場でこそじゃないか?しかもそのコミュニケーションのありかたも問題で…。う〜

 

そんなことよりも大きな問題を生命論的世界観からとうべきなのか、いったいどこからどこまで、何を生命論的世界観からとうといいんだろう。

 

よくよく考えたら、「生命論的世界観」だけでほんとうに「生き続けること」につながるか、問題解決につながるのか、という問題もある。つまり、上位概念としてとらえながらも目の前の問題は別の論理で展開するということが必要になる。めっちゃおおきな視点からみたら「生命論的世界観」になってて、現実にはちがうう観を「あえて」はたらかせると。もちろんそれはあるだろう。これはややこしい問題になってきた。

 

また関連する問題にあたったときにかんがえてみたい。

 

さて、もう1冊実はよんだんだけど、やっぱりそれはまた今度にする。次こそ2冊よみを達成したい。

 

あ、そういえば、科学(事実)と観とは、疎外要因とそれと結びつく観と同じ構造だなぁ。でも、科学は答えであり答えでないという特徴はどう理解するべきなんかなぁ。