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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

ダンス発表会見学

昨日知り合いの教員の方がダンスを発表するということでチケットをもらって見学してきました。
 
 
本格的なやつです。
 
 
演技はダンスカンパニーの受講生から選ばれた人たちで構成されたチーム、初級・中級・上級とすすんでいきました。
 
 
それぞれのチームの演技がテーマ性をもった動きをしていておもしろい。あの演技は何を表現しているのだろうかということを考えたくなるような内容だった。
 
 
でもやっぱりマスターの部はもはや思考がいらない、みたままがアート、ぐいぐいきました。自然と心躍りました。個々の表現力が高かったですね。
 
 
 
ちなみに、アートはみる人の視点が投影されますので、趣旨とはずれているかもしれませんが、感想です。
 
 
園長の話でもかきましたが、人は解釈できない事象にであったり、複雑な感情がうまれたりしたときに、言葉にならない、新しい解釈の枠組みを必要とします。震災を体験して私たちは今も震災の解釈をとらえなおそうとします。事象が複雑で深い問題ほど、私たちは人間存在や社会そのものを捉え直す根本的な解釈の枠組みの変容を必要とします。
 
 
おそらく、アートとはそういう未知・未解釈のものにあえてたちむかうことで、その解釈をめぐって様々な自己の体験や感情や思考を投影していく中で、様々なインスピレーションを「自ら」うけることに特徴があるのではないでしょうか。
 
 
ということで、解釈はもちろん自分の視点が投影されるわけで、本来つたえたい表現はあっても自由につたわった(自ら投影した)ことをのべてもいいだろうとおもったりしています。
 
 
ということで、自由に。
 
 
今回、人間が日常的におこなっている活動=創造的破壊を文明史的視野からながめるテーマ性が一貫して見えて、興味深かった。
 
 
①いきなり序盤の映像からの演出にやられた。
 
火がうつしだされる。パンフレットには「破壊・共感し、常識を問い直し、創造する、そうやって人は常識をくつがえしたり、新しい世界をつくっていく、上昇していくんだ」そういうテーマがかかれていたので、あ、これは文明のおこりを表現しているのかとおもった。人類はまさに創造的破壊の日常と歴史だったのだろう、そうだろうなと。
 
 
で、映像は駅の構内(?)で人がすれちがうところがうつりだされる、でも、人々は後ろ向きにあるいている。時間がさかのぼっているようだ。そのうちその視点が1人の男性の視線だときづく、その視線は自分の手に、ひらかれた手にぱちんと火をおこす映像がクロスする。また火がうつりだす。なわをつたったコントロールされた火がうつりだす。
 
 
こうして現代から時間がさかのぼり、最後にまた現代にもどってきました。しかも手の内に。
 
 
あの演出と今回テーマとなっている「破壊と創造の繰り返し」がかぶることで、過去に流れる時間も今流れる時間と同じように流れているものなんだな〜と思いました。
 
 
 
今の人が過去を語るとき、それは過去が今流れているんじゃないかって思いました。流れ(歴史)は過去とか今とか関係ないんだなと。歴史は過去のできごとだけど、その流れは今おこっていることでもある、そういう感覚におちいりました。
 
 
 
このテーマ性があったので、踊りが不安定から安定へ、そしてまた不安定・破壊(破滅)・創造(不安定)・安定へとつらなっていく様子がみられ、みてる人たちはそれぞれの日常でがんばっている自分の姿を投影したのではないでしょうか。人間の営みそのものですもんね。意識的ではなくても、無意識に投影されていたのではないでしょうか。動きが未完成さや戸惑いや創造性が表現されていておもしろかったです。
 
 
創造がなされたちあがったとき、意思をもってうごこうとする、でもその動きはぎこちない。どうも人間の意思がわずかだ。前にいこうとする、でもなぜかうしろにもどされる。それは自らの意思とは反するようだ。意思とは違う力学がおこる。そういうことを個々がくりかえし体験しながら、次第に全体が秩序や調和をうみだしていく。でもまたくずれていくのだが、その過程が実におもしろかった。内部(意思)と外部(力学)があって、奮闘する姿だ。
 
 
 
でも、人間は「格闘」だけじゃない。常識はたしかにくつがえされる=破壊されるものではあるけれど、その形態(かたち)にこだわりすぎたのではないか?という印象をもつ。創造的破壊はクリエイティブな発想だ。ニュアンスとしてはもうちょっと軽かったりするし、豊かであったりする。破壊といっても全部くずすわけじゃなくて部分的だし、それによって対象的世界は豊かになるとかんがえたら、何も不安定さだけが破壊の表現方法ではないだろう。
 
 
 
②また2つの演技をみてちょっとおもったのは、小さな変化もマクロに見たらすごく大きくて複雑な力学が作用してて、身近なことのなかにそういうものをもう一度見つめなおす必要もありそうだなと。手を上に動かすだけでもたくさんの力学が働いていて、中身はたくさんつまってる。
 
 
何気なくすごしている日常が奇跡だという意味にもとれる。
 
 
例はなんでもそうなのだからなんでもいいけれど、トンネルだって建物だって、人の手がはいってようやく完成している。でも時代は「○○トンネルができた」「私たちの家ができた」という時代として人々に記憶されるのだ。
 
 
仕事で何か達成したときも、様々な力学がはたらいているものだ。意識的にみないとそういうものはみえない。
 
 
そういえば、震災後、森さんが「共感的想像力を働かせるときだ」とのべた。遠い東北の地で何がおこっているのか、どうすごしているのか、私たちは東北の人たちのおもいを共感的に想像することがまずは必要なんだとかたった。で、その後、成瀬さんが「今ここにあるものから、今ここにないものを想像する」ととある研究会の前にのべたことがある。
 
 
みえてることからみえないことを想像するのだ。
 
そういう思考の枠組は、対象的世界を想定する枠組だ。
 
相手の存在を独立させる、意思をもつ、経験・過去をもつ、状況をもつ存在としてうけとめる、目の前の挑戦する世界がどうあるべきか、今どこからどう発展させられ、どうこれからを展望していくべきかを想像する、そういう枠組だ。
 
 
結構ふかい話だ。目の前の子どものいわゆる問題行動の背後にある願いをどうよみとるか、子どもに学んでほしい学習内容のその先にどんな子ども像・主体者像をえがくのか、人に働きかけるときは常にそういう想像力をはたらかせていく。たまにずれるときもある、でもまた応答の中であたらしい想像を展開するのだ。
 
 
 
③一つの演技に強烈なメッセージがあるんじゃなくて全体を通してメッセージが重なっていく点がおもしろかったです。
 
 
 
 
④じっくりみれば教材化にむけた視点もいくつかえられそうだなとおもいました。動きだけじゃなくていろんな演出(チームが2つにわかれてむきあったりとか)がみれて、そういう工夫の仕方もあるのか〜っておもったし、感じたのは、ダンスも抽象派とかロマン派とかそういう系統がありそうだなと。特に、マスターの人たちはもう表現とアートがくっついている印象だけど、表現(テーマ型・メッセージ型)としてのダンスと、アートとしてのダンスはちょっと違うな〜っておもったり。かなり難しいんだけど、創作ダンスなんかはテーマ型だけじゃなくてアートレベルまで到達しないとダンスのおもしろさってでてこないかもとか。
 
あと、初歩的なことですが、ダンスのイメージって、やっぱり本人にくっついていたんですけど、チームで仲間たちとともにダンスをやっているんだなっていうのが今回わかりました。今更ですが。
 
 
知り合いの方の新しい一面をみれてよかったです。

 

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