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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

科学と社会、トランススポーツな問題とは?

読書ノート

ちょっとおもったことメモ

 

①ふたば未来学園について。

 

4月8日にはじまった。

 

正直、信じられない。

 

数々の著名人を看板にして安全をアピールさせ、スーパーグローバルスクールとして文科省の教育推進の旗もたてて、お祭り化した勢いで、よきことを演出しているようにしかみえない。政治利用もされているじゃないか。つかえるものは全部つかって、なんか無理やりな印象がつよくないか? 

 

原発から30キロ県内。高校生を?? どこまで問題を議論したのか?? そういう議論がどうしてニュースの表にならないのか?

 

してないからこそのお祭り化なんじゃないか?

 

移染したって雨風吹けば山にたまったものが流れてきて危険値までもとどおりになるということはデータででているのに・・。

 

フレコンバックもびりびりでとんでくるのに。

 

汚染水の漏水もとめられなくて、海洋におもいきって流す時がくるなんて話もでてて、

 

やりかたが汚くないか?

 

とてもじゃないけれど、応援するきになれない・・・。ちゃんと協議されたのか・・?

 

復興アピールに子どもたちを利用したにすぎないんじゃないか・・・。

 

なんだか訪米をにらんだ沖縄訪問とおなじにおいがする。

 

とはいえ、まぁ、若い人がそこにあつまらないと町の存続がかかっているんだという理屈もわからなくはない。

 

でも、そっちの論理はすっきりしているけれど、対立する論理はすっきりしていないでしょ? 危険か安全か、これは汚染の結果が長期的なものなために判断できない問題だ。なのに、すっきりした論理の方だけでおしとおしていいのか?

 

こっちの言い分はすっきりしている、こうだ!大事だろ?、そっちの言い分は、結局言い分自体が「まだ」証明されていないし、言い分がなりたっていないじゃないか、なんて状況になっているんじゃないの?

 

危険度がわからないという非コントロール状態(アンダーコントロールでは決してない)のことをせめて理解して、もっと遠くに設立すべきだったとおもう。どうせ効果なんて検証されないにきまっている。大規模でなければ癌になっても結局汚染の影響だなんて証明できないのだから。責任も手続き上立証できないからとれない(とらない?)のに強行するべきではないはずだ。やっぱり、思惑。町の再生とは違う論理がはたらいているようにしかおもえない。

 

 

②『科学は未来をひらく』村上さんをよんで。

 

 村上さんは科学の概念史をたどりながら、現在は科学と社会生活の関係が大きくなってきていると指摘している。

 

 そして最後に、「トランスサイエンス」の発想を大事にして、理科なら理科だけの解決方法によらない、クロスする発想を展開することも学んでほしいと願いをうったえている。「トランス」はこえるという意味だから、科学者だけではない価値判断ももちいるということだ。

 

 なるほどと思う。

 

体育にひきとると、体育は体育固有の学びがあるけれど、それがクロスする発想もどこかで大事だと主張するのである。

 

 じゃあ、体育が対象とする運動文化(スポーツ)においてトランスサイエンスな問題ってどんな内容なんだろうか。

 

 

 教科教育ではその教科(体育)でしか学べないこと、教科(体育)だからこそ学べることが存在している。

 

だから、教科(体育)だからこそ、トランスサイエンスな発想を大事にすることができる問題をさぐる必要があるとも確かに思う。

 

たぶん、わかりやすいのは体育理論であつかわれることなのかも。スポーツの歴史、道具の歴史と技術の発展の関係、社会変化、オリンピックの政治利用、社会問題、様々なテーマがゴロゴロしている。

 

実技の領域でもルールの問題をめぐって、目標の合意をめぐって、トランスサイエンスの問題が生じてくると思う。

 

でもそれらはやっぱり教科の枠内にとどまるともいえる。教科の枠をこえたら、総合学習とかがそうだろう。ドイツでもテーマ学習やプロジェクト学習などがあるみたいだ。『体育のカリキュラム開発方法論』。

 

トランスサイエンスの問題は教科でこそ学ばせられることがあると考えたい一方で、そもそも教科をこえる発想なんだから、総合学習とかのことで、教科で考える必要がないのではないかともいえる。

 

ただ、スポーツの問題は「カネまみれ」「政治でよごれている」といった声が盛んに展開されているように、スポーツの論理だけの話ではない。じゃあ、スポーツの問題は教科横断的に展開されるべきで総合学習でこそあつかわれる問題ということもいえるのか?

 

ん〜教育課程論にふみこんできた。

 

とりあえずは教科のことで考えておこう。のちのちまた問題になるだろうから。

 

ということでどういう問題がトランスサイエンスの問題になるのか、スポーツのこと、体育理論の実践報告を通してかんがえられるとおもうので、頭の片隅においておきたい。

 

あ、今気づいたが、トランスサイエンスはあくまだ「サイエンス=科学」の問題だから、体育の場合、トランス・スポーツな問題ということか!

 

ん〜〜気付いてよかった。ということでタイトルはそのように反映。本文は思考過程ということでそのままにしておきます。

 

村上さんの内容、メモ。

 

・科学と技術の融合、その結果としての科学の社会化。

 戦争を契機に科学と技術の融合がなされるようになり、その結果、科学研究の成果を産業や行政が活用するようになった。行政や産業が科学の力を利用することによって、一般の人々の間にも科学が大きな影響をもつようになった。となると、科学が否応なく、社会全体の課題の1つになる。科学は社会と大きな関係をもつようになった。(日本1995年科学技術基本法制定、科学への投資による社会経済の発展)

 → トランスサイエンスの問題の出現。BSEの全頭検査問題、遺伝子組み換え問題、被曝問題。

 

・社会での意思決定は誰がするのか?

 ①原理的問題。民主主義社会に属する人間として、意思決定にまったく関わらないまま専門家だけにまかせておいてよいのか。社会のしくみの根幹に関わる問題。

 ②専門家に任せておいて大丈夫なのか?という実際的な懐疑。専門家とは1つのある特定の領域だけをやっている人で、社会のなかで今問題になっている科学技術の話は1つの領域のみにおさまらないものがほとんど。

 

裁判員制度が導入されたのは、常識や良識での評価を期待しているからで、こういうシステムを参加型技術評価とよぶ(いろんな人がいろんな知識をもちよっていっしょに参加して問題を決定していこうという考え方)。

 

・常識に満ちた判断力は、科学にとって最も必要なこと。良識の上に成り立つ社会であってほしい。