TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

園長の話から

3月28日に大阪で宮城の園長の話をきいてきた。

 

知る人ぞ知るあの人だ。

 

園長の公演をきくのはこれで3回目になる。同様の話ではあるものの、やはりきくたびにおもうことがある。

 

というのも話の進展がよめるようになるから、園長が何かを話しているときに途中できくのやめて、これはどういう意味なのだろうかと自分でかんがえることができるからだ。

 

ということでおもったことをメモしておく。

 

・1つは、人間の成長への信頼をもつということ。これは卒園式でせいのさんがいった言葉だ。子どもの先をみて、子どもの今がみえるということだけではなく、子どもの今をみて、子どもの先がみえることもあるのだなとおもった。

 

先日和歌山にいったときにやまのさんが学校の様子を紹介してくれた。そこでは廊下をスケボーで移動する子やあそんでしまう子などを紹介してくれたけれど、そういう子どもに対してはつよい指導ではなくその子が自ら変容をしめすように「はたらきかけながらまつ」という姿勢をとっているようだった。

 

そのこども観には権威や圧力によって子どもを統治するのではない、その子も必ず成長するときがくるという信頼がかんじられた。うまく表現できないけれど。

 

園長も少し高いところからとびおりてスリルをかんじることを拒否する子がいて、その子にたいしては自分でやりたくないなら参加しなくてもいいよと話していた。するとあるとき友達がたのしんでいる様子をみておもむろに自らとんだのだ。

 

そして次の日、いつもの神社の階段すべりもこわいから参加してない子だったのに、その日はすべるといったという。どうして?ときくと、「昨日たかいところからとんでこわいけどたのしいってわかったんだもん」と回答した。

 

そしてその日は友達にささえられながら、すべりおりたそうだ。

 

ある日母親にパンツを洗濯してもらえない子が、母親のパンツをはいてきた。いいべいいべとつよがって自慢をしている。園長はそのこどもの気持ちによりそおうと次の日全員に母親のパンツをはいて登園させた。

 

震災のとき、2才の子どもは園長なかないでとなぐさめた。

 

震災後、園長のところにさくらんぼを1粒もってきてくれた子どもがいた。

 

園長は、子どもの今を大切にすることで、子どもの未来がよりよくなること信じている。

 

こどもの今の気持ちに寄り添いながら一緒におもしろい世界をつくっていくことが必ずその先の人間の成長につながると信じている。さくらんぼの子がそうだ。

 

未来志向はときに現在をみえなくする。科学技術が未来のために、社会のためにと躍進をつづける一方で、実はその未来は本当に必要な未来なのか、社会が望んでいる未来なのか、そういった声や対話をもとめる姿勢がうしなわれていくことがしょうじてしまうのだ。

 

トランスサイエンスの発想。現在の肉声を出発点とすることの中に未来をもとめることが必要である。園長の話は理論と実践の関係がおぼろげながらみえてきているような印象をうけた。

 

 

・「痛い、けど、うれしい痛み」について

 

 園長の運動会では神輿のつなを保護者たちが協力してあんでいく。神輿は子どもたちがつくったものなのだろうか はわからない。

 

で、そのつなでつなひきもする。

 

普段使用しない筋肉が疲労し、次の日には筋肉痛がやってくる。しかしそれが自分たちの非日常の中での人と人とのつながりの中でうまれた、おもいをこめた行為によってうまれた痛みで、「痛い、けど、うれしい痛み」と保護者はかんじるようだ。

 

なるほど、と思った。

 

私たちは普段なにげなくおこなう行為や日常の現象の中にも、ひっかかるおもいー感情ーが投影される。こうして日常に肉感や経験的意味を付与して豊富な記憶にしていく。このとき想定外やイメージとの差異が生起すると、現象が理解できなくなる場合もあり、それはつまづきとしてあらわれる。

 

言葉にならないときは、こういうこと。

 

で、こういうときには新しい枠組みが必要になる。もしもショッキングな事象がおこったときには新しい枠組みの投影なしには世界をみられなくなる場合だってある。

 

「痛い、けど、うれしい痛み」とはそういうものだ。

 

つまり、人は感情を事物に投影してしまうのだから、人生とは新たな枠組みをつくりだす連続であろうし、おそらく、認識のくみかえのサイクルでたどりつく先は「人が生きること」や「社会」そのもののなりたちになるのではないだろうか。

 

震災にであったとき、言葉にならない問題を自分の存在証明のレベルで再考しようとしたはずだ。現象を生きる地平で考えることで生きかえって、生きることがわかる。

 

教育実践は多様な経験とそれを総括させる言葉を獲得させていく。そして言葉はリアリティーをもった経験や他者との交流(つたえたい・一緒にたのしみたい)の中でたちあらわれてくるものであり、集団や協同が意味をもつ。

 

こういう意味で、「人が歩くということは何か」をテーマ化してとりくんだ運動会は興味深かった。縄文人になろうという呼びかけやおまつりも興味深いとりくみだ。現代や人間の成長に新たな意味を付与する、日常を融解させるお祭りだ。

 

そしてお祭りという非日常の世界には日常がでていることも興味ぶかい。だからこそ意味があるのだろうし、自由の国から必然の国への影響があらわれてくるのだろう。

 

・共振しあう、競争

 ただ競争するのではなく他者との共振がある競争をめざす。園長のとりくみのテーマであろう。

 

雑なメモですね。講演をききながらやはり園長とは実際に酒をのだりおどったりしながら同じ時をすごさないとするどさはわかんだいなんだなということをおもった。

 

ん〜話はもどるが、自分も言葉にならない感情がわいたとき、新たな枠組みをもつ言葉を必要としている時で、それを肉感をともなってみつけられる人は、きっとするどい人になる、そうおもったので、やっぱり自分の言葉でいろんなことを整理し考えていく必要があるなとおもった。

 

 

 

 

 

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