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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

デモンストレーションに参加しながらかんがえたこと。

読書ノート

3月15日伏見で開催された反原発デモンストレーションに参加した。

 

本来なら集会から参加したいところであったけれど、残念ながらその他の予定があり伏見から栄までの行進だけの参加となった。

 

かつてスポーツ系のイベント(これも平和運動の一環として開催されたもの)でであった方とも再会し、知り合いに愛知の高校教員で知り合いがいるから紹介するよといってもらえたので、ぜひと連絡先をいただいた。

 

この流れがつながればいいけれど、もしつながらなくてもこうしてつながりの中で活動がひろがっていくということが確認できたわけで、こうしていつかどこかの誰かにつながるんだろうと確信をもつことができてよかったのである。

 

さて、デモンストレーション、ちょっと残念だった。

 

というのもスピーチもなければコールもすくないしただあるいているだけの時間がおおかったからだ。おまけに海外の音楽をながしているけれど、音量が大きくてコールの声がきこえないありさま。音楽も平和運動とは関係なさそうだ。

 

やっぱりやるからには表現性(デモンストレーション)を追求してほしい。このデモンストレーションにどれだけの意味をこめているのかはその表現性の高さにあらわれるはずだ。これは何も大音量で派手な表現をせよといっているのではない。何をこそうったえたいのか、その吟味が必要だ。

 

たとえば、どうして原発に反対するのかをもっと演説してほしいし、1人ひとりがかんがえ、行動することがいかに大切なのかをうったえてほしいとおもう。自分たちの肉声こそ共鳴させたい。

 

このことをかんがえる上で重要なキーワードがやはり民主主義ではないだろうか。

 

民主主義という理念を土台としてデモンストレーションがおこなわれている。

 

ここには1人ひとりが自分の言葉で政治や社会を語り直すことを何よりも大事にする発想があるはずだ。1人ひとりがその身で意見を表明し、理念や論理のもとで団結し、現実と立ち向かっていくのだ。

 

戦争の反省で最も自覚されたのはこのことではなかったか。日本は勝っているぞ、つよいぞ、総動員された団結力で敵国をやっつけているんだぞ。そんな言葉におどらされて、日本の勝利を願って武器のために働きつづけ、武器のために生活を貧困にし、武器のために死んでいったのだ。実際は弱さゆえに多くの若者が国のために命とひきかえに攻撃を展開しなければならない状況であったのに。多くの犠牲者をださずにすむ方法もあっただろうに。

 

私たち市民は「戦争をめぐる国家」にだまされていた、かいならされていたんだ。だから自分のかんがえをもちよりよい民主的な社会をつくっていこう、すこしでも人々のくらしの平穏さをとりもどし生活を豊かにさせよう、そうちかっていったのである。

 

大切な家族や友人をうしなうことになった詐欺被害を「戦争・国家」からうけたという共通体験が戦後市民の力になって高度経済成長をつくりだしていった。

 

しかしいつのまにか戦時中と同じ状況がおこっていた。

 

そうきづかされたのが、3.11であり、ことごとく民意がつぶされる沖縄である(琉球処分)。

 

福島という土地をうしなった背景には国家的な経済戦略による疎外状況がうまれていた。

 

おまけにその疎外状況の露呈にあせったのか、あべさんは原発はコントロールされている、もう安全だ、などと嘘をばらまいた。オリンピックという一過性の興奮(麻薬)をかくれみのにして、日本は1つ=オールジャパンという国家的「正義」をつくりあげたのだ。あれから4年、今でも汚染水は垂れ流し状態だ。移染作業をしても雨風ふけばもとどおり、おまけに移染のためのフレコンバックも植物が成長してびりびりにやぶれ、中間貯蔵施設もほんの一部の話。

 

メディアもこぞって無視しつづけていた。

 

沖縄もそうだ。「国民のみなさまに説明を、民意にそって」などと表面的には綺麗な言葉をならべつつも、実態は軍事産業万歳、アメリカと提携する利益のためだ、沖縄のみなさんはいうことをきけ、とおしつけてくる。きわめて暴力的な進め方だ。

 

こうして市民は再びきづくことになった。戦後、自分たちは社会をきづき、誰もが安心して守られる体制づくりに慢心してきたことを。その結果、まもられていたのか、かいならされていたのか、この区別が曖昧となってしまっていた。

 

理想とする民主主義の確立をねがって奮闘したのに、その民主主義がないがしろにされている昨今。

 

もう一度、自らの体験をもって社会の出来事の是非を問うていこう。

 

自分の言葉で社会や政治を語り直そう。

 

未熟だと自覚するからこそ周囲の人と議論をしよう。

 

どんなに立場の違いがあろうとも、お互いの真の姿、真の考え、真の感覚を探求しあい、相互に尊重しあい、人間として対等になろう。

 

 

あたなはどんな平和な生活を、豊かな生活をおもいえがいていますか。

 

まずはこの問いをもって、ニュースで流れる情報からかんがえてみよう。

 

そんなことをかんがえている。

 

さて、話はもどるが、やはりデモンストレーションは1人ひとりがかんがえをもちそのかんがえを発することが重要だとかんがえる。

 

デモンストレーションは群像なのだ。1人ひとりの主権者のあつまりなのだ。お祭り化してさわぎたてればいいわけじゃない。1人ひとりの独自の論理でどう反対なのかを肉声で語りあう場になればいいなとおもう。議論をよびかけ議論をとおして団結するデモンストレーションだ。

 

自分もどう生きるのかという問いの延長で、1人の市民として昨今の問題をかんがえていきたい。