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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

『たのスポ』特集「運動文化論」をよむ

<①支部ニュース「よもうよ、たのスポ」の原稿>

 支部ニュースで『たのしい体育・スポーツ』1・2月号をよむようによびかけてという依頼がきたので、いきおいでつくってみた。

 

ちょっと中途半端な点もあるけれど、ここにもメモとして掲載しておく。

 

1.今月の特集は「運動文化論」

 

 「うんどーぶんかろん」。よくきくこのフレーズは音としてすぎさってしまう・・・。音(意味)が自分の耳をつかまないのか、ボクサーのように頭をふって自分の耳が音をかわしているのか・・・。

 

 運動文化論とは「運動文化についての見方・考え方(論)」であり、「運動文化が誰にとっても生きがいをもたらすゆたかな生活文化となるように、さらには人類の平和や幸福に貢献する大衆文化となるようにしたいよね」という「願いの塊」のことでしょう。

 

 だから運動文化論は学校体育論だけのものでも、体育同志会の専売特許でもありません。「運動文化についての見方・考え方(論)」なのであって、ランニングをしているあなたに、地域のスポーツクラブに参加しているあなたに、スポーツ観戦を趣味としているあなたに、さらには教師・コーチ・スポーツ研究者や人類学者にも問いかけられているひらかれたものなのです。

 

2.体育と運動文化論の手をつなぐ

 

 体育同志会は運動文化論にもとづく学校体育論を研究の柱にしてきました。私たちの願いは子どもたちが学校を卒業してからも運動文化本来のおもしろさ(特質)を享受し仲間とともに生活をゆたかにしてほしい,メディアからうけとる運動文化の情報をうのみにするだけではなく,ほんとにこれでよいのかと問い,議論をかわしてあるべき姿を思考してほしい、といったものだとおもいます。

 

 そして学校体育で育つ子どもたちが私たちの願いをうけとるには、①その教材(運動文化)独自のおもしろさをたっぷりあじわわせる、②「できる・できない」や「うまい・へた」観を友達をけおとすものではなく手をとりあうゆたかな観にしていく、③文化の側の問題にきづき自分たちにとってよりよい文化へとつくりかえていく、そんな学習がもとめられていきます。

 

※ここは印象の範囲内なので今後ちゃんと整理していきたい。

 

3.自分の言葉で運動文化論を語り直そう

 本号で掲載されている運動文化論を柱とする体育同志会の研究史や5つの実践報告はこうした「願い」や「課題」を共有し、目の前の子どもたちとむきあいながら少しでもその「願い」に近づくようにと探求してきた教師たちの語りです。「願い」や「課題」を共有するといってもその探求過程で幾度となく語り直しています。体育同志会の研究課題を目の前の子どもたちと追求するとともにその実態(子どもの反応)から再び問い直しているのです。教師の立場から、運動文化が子どもたちの将来でゆたかなものとなるようにどんな「願い」や「問い」をもって教育研究をしていくのか、本号と対話をして自分自身のめざす体育教育や体育教育をうけた子どもたちの未来をかんがえてみませんか。

 

 

<②たのスポdeランチまとめ>

 愛知支部ではランチの時間にたのスポをよんでラフに意見交流をしようという学習会をもうけている。こちらも支部ニュースでまとめをかいた。テキストは上記と同様なので、ついでにメモとしてここにもはりつけておきたい。

 

ただし、ラフに話をしたことなのでここは印象的な議論なので注意。またいつかしっかりと整理していく必要がある。

 

 ・場所:2015年2月21日ランチタイム(伏見のカフェ)

  • 参加者:4名
  • テキスト:『たのしい体育・スポーツ』2015年1・2月合併号
  • 今回は堤さんが久保論考のまとめをされてきたので、その報告をうけながらきになったポイントを議論していった。
  • 話の中心は以下2点

 

1.丹下の「生活体育」という用語はやわらかすぎて誤解をうける?

 

 丹下の生活体育論の意味は、「生活」というと障碍児教育なら生活訓練もはいるし、通常学級では健康のためのスポーツ活動も想定される。でも丹下たちがいっている「生活」とは、子どもたちがよりよい運動生活をきずいていくことを意味していて、「戦争の反省にたってだまされない主体者・これからの社会をきりひらいていく主体者像」が想定されているだろう。

 

 「生活体育」を現代的課題としてひきとりづらいのはこうした意味合いが用語からはよみとりづらいからではないだろうか。「生活」というと日常生活とか広い意味での社会生活をざっくりとイメージしてしまう。けれど丹下がいいたい「生活」はもっと具体的な意味をふくんでいる。

 

2.丹下の「体育手段論」という用語はするどすぎて誤解をうける?

 

 体育は「下請け体育」=「体育手段論」を否定している。つまり健康のため、民主的人間関係づくりのため、体力づくりのため、といった体育を手段とする考え方を批判するのだ。でも丹下の体育手段論はそれらの目的を否定するものではない。否定する理由は健康のため「だけ」の体育をめざすと運動文化のおもしろさの本質からそれてしまう可能性があるからだ。体育手段論は他の目的を否定しているわけではないという理解はとても重要だとかんじた。健康・体力づくり・人間関係づくりといった目的は現在社会生活でおこなわれている運動文化のありかたそのものである。これは否定されるものではない。なのでたとえば職場で同僚と教材のおりあいをつけるときに「体力づくりが大事」という同僚を否定するのではなく「おもしろさをもとめる中で体力づくりをしていくようにするのはどうだろうか」という提案をしていけばよいのだ。「①何のために、②何を」をともにかんがえるのである。

 

 ただし、戦前・戦時中の体育では「手榴弾投げがたのしかった」「やりつきがたのしかった」という作文を子どもたちがかいているように、「おもしろさの質」がやはり問題にならなければならない。「おもしろさ・たのしさの追求」という課題を提案するとしても内容の吟味が背後になされていなければならないのである。すなわち「②何を、③どのように」が大事になる。

 

 堤さんは体育授業で「①②」と「②③」をかんがえるようにしているという。これが参考になりそうでおもしろい(前回の投稿でも認識わくぐみとして使用させてもらった)。

 

①なんのために(目的)、何を、

 

 

②何を(内容)、どうする(方法)、

 

とかんがえることは、いっぺんに「何のために」「何を」「どうする」ということをかんがえることはむずかしいので、目的を大事にして内容をかんがえる、そして、内容を大事にして方法をかんがえるとわけていくのである。①は手段論の最初の話に対応して、②は手榴弾なげの話に対応している。

 

なるほど〜