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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

<関西近畿ブロック研究集会>

 

 さて、別府さんをよんでの例会の次の日、2月22日(研究会は21日からあったけれど参加は2日目だけ)に関西近畿ブロック研究集会に参加してきた。

 

2月例会のまとめはまたのちほど。

 

参加理由は組織的活動をどう展開するかという点で参考になりそうだったからである。

 

 初日は各支部の研究活動史や現在の活動状況などについて報告したようだ。

 

 2日目では、各支部の若手の方が体育同志会における活動についてかんがえていることを自分の言葉でかたられた。1人の方は急遽シンポジストとして登壇したのであるが、かんがえていることをしっかりと報告されていた。

 

 興味ぶかい、といっていいのかわからないけれど、いくつかきになる発言もあった。はじめて実践報告をしたり組織的活動をしたりするときに「自分の学級の子どものことをねほりはほりきかれて品定めされているようで嫌だった(子どもの必要にこたえる教材選択・指導をしようとする意図が背景にある)」「実践づくりにかんする報告ならまだしも支部ニュースや部局の活動などをまかされたときは積極的なきもちではとりくめなかった(力量や意欲にみあった役割をおねがいしているものの)」といった否定的な見解をもつ声がおおくあった。しかし、校内研究を担当したり実践をめぐる議論をつみかさねるなかで、かつて嫌だなとかんじていたことが、あとあと自分の力にかわっていたと実感している人がおおかった。きづいたからこそ再び組織的活動にくわわるようになったそうだ(登壇背景)。

 

 再びもどってくることをかんがえると実践づくりの視点はたしかなものがあることを示唆する一方で、「なんのために」という点を本人に合意してもらって議論したり活動をおねがいするという課題がみえる。

 

前者の点については興味ぶかいことだとおもう。教師のライフヒストリーとして民間研が重要な成長の契機になっているからだ。民間研できたえられる日本の教師たちの声をきくことができてよかったなとおもう。

 

 

  • 支部の組織的活動への否定的見解について

 

 組織的活動への否定的な感情は自分自身かんじるところがある。その感情をもったままのりきったこともたくさんある。ただときにあたえられた組織的活動をあたえられた組織的活動としてうけとるのではなく、自分にとってどんな意味があるのか、自分のやりたいことしたいこととどうこの活動がむすびついているのかということを問いなおし、みずから組織的活動を展開していく、自分流に活動をくみかえていく(ちょっとスパイスをいれる)という行為をおこなうこともある。最近はわりとそういうことができるようになってきたと実感している。だから、支部活動ありきで活動をこなすのではなく、みずからつくっていく、自分のああしたいこうしたいに組織的活動をひきよせる意識をともにもっていきたいとおもう。所属している組織がいったいどんな意味をもっているのか、そもそも論を自分にひきよせてかんがえていきたいとおもう。

 

かつて同志会の研究成果があたまにあり計画づくりでこまっていた方にたいして「同志会よりどうしたい」というなげかけがなされた。同時に私は「同志会を(自分は)どうしたい」というなげかけもしてみたいとおもうのだ。

 

ただ、現代においては「だれでもいい仕事」というのは意味をみいだしずらい。「私ではなくてもいいのではないか」という疑問がその仕事にうちこむことへの抵抗感をうむ。私もそうだった。ひょっとしたら既存の研究成果をつい実施する場合も「私ではなくてもいい」という実感をもたらすのかもしれない。戦術・技術指導の系統性なんてのはとくにそういう実感をもたらすのかもしれない。でも、意味をといつづけるなかで次第にそれが「自分にしかできない」活動でもあることにきづいていくだろう。ちょっと自分流に工夫してみる余裕がでてきたころだろうか、そんな状態にうつるときがある。

 

人生についての問いは「やりたいことをみつけよ」というよりも「自分にしかできないことをせよ」という問いの方がひらかれているという坂口さんの主張と類似している。

 

あらゆる「活動」が「自分にしかできないこと」だときづくことは、フランクルのいう「イエスという」ことであり、自らの固有性(名前、私)の肯定にほかならないということだ。"よびかけられる存在”として"固有の活動”を継続すること。そこに「他人との比較」や「比較による自責」といった、ありふれた葛藤がはいりこむ余地はもはやない(斎藤『承認をめぐる病』)。

 

この状況まで到達するのには正直まだまだ時間がかかりそうだが、なんとなくそういう状況にいたるんだなぁというみとおしをもてる。

 

 

 

  • 教師のワーク(・ワーク?)・ライフバランスについて

 

 民間研の活動に負担をかんじる方がおおくおられる。その原因は多忙化のなかですきま時間をみつけられないこと、そしてそんな中での組織的活動への違和感(意義がみいだせない点)がおおきなウェイトをしめている。

 

 自分のみぢかでも教師の多忙化が加速するうえに子育てや家庭のことも考慮していかなければならない方がおおく、支部活動におもうようにかかわれない方がいる。

 ※いつぞやかよんだオーストラリアのワークライフバランスについての本が参考になった(読書ノートにあり)。

 

 そこで、報告をきいておもったのが、総会を一番大事にしていく必要があるのではないかということ。総会でみのたけにあった年間研究活動計画を「みんなで」つくっていく必要があるのではないかとおもいます。毎年常任委員会(特に研究局)メンバーだけで体制をつくるのではなく、また既存の体制をそのままうけいれるのではなく、メンバーの主体的・能動的な支部活動への参加が保障されるように、みのたけにあった目標や研究活動計画の設定、子育て・家庭の状況をみすえたサポート体制や活動量の制限を考慮にいれていくこと。人とパワーと意欲をみすえた年間研究活動計画の作成を大事にしていく必要があるのではないだろうかとおもう。

 

 とはいえ、すぐれたベテランからこれやってといわれたらことわることができない、無理な計画に一言いうことができない、こうした状況がうまれてくるかもしれない。やはり、あらたに役割をになってもらうときには合意をとる姿勢が不可欠であるし、常任メンバーは「ことわりづらい」心境を理解して発言をしていく必要があるだろう。パワーハラスメントがおきていないかどうかは支部の相互交流をとおしてうきぼりにしたり組織的活動方法の交流をとおしてチェックしたりしていく必要がありそうだ。

 

 

  • ことわれない、について。

 

 実践目標がたかくあの人みたいには報告できないとかんがえてしまう方がいる。私のみのまわりでもそうだ。「あの人のようになりたい」というあこがれはときに「私はあの人には到達できていない」という心理をうむのだ。よくよくかんがえたら今回の登壇者はみな、牧野さん・安武さん・茨木さん・大宮さんなどなど「すぐれた実践家」へのあこがれをもっている方たちばかりである。

 

 私たちは子どもたちが安心してくらせる・育てるようにすこしでも今の状況をよくしたい、体育でたしかなまなびを経験させたいという「願い」や「問い」を前にしては対等平等の関係にあるはず。そしておおきなところでの「願い」や「問い」はおなじでもかならず「自分なりのかんがえ」があり、それはあこがれのあの人とはちがってくるはずだ。「あこがれのモデル像(形)」からぬけだし「教え−教えられる」関係をのりこえていく必要がありそうだ。あなたはこうかんがえるのね、私はこうかんがえる、というやりとりがふえていくといいのかなぁ。もしくは「のりこえの対象」としてとらえる、これかなぁ。「めざすレールがあこがれの人とつながるこの道しかない」という状況が自分をおいこむのかもしれない。

 

  • 最後に、澤さんは職場の環境づくりが大事だと強調された。今の器で何をするのかということだけではなく、その器をひろげていく努力も必要だと。そのために個がつよくなる、管理職のいわれたことをへこへこうけいれておかしいことをその場で主張せず、あとでやりかたがきにくわないと文句をいう、そういう状況におちいっていないかとうったえるのだ。

 

 こういうことが可能になるためには同じ職場で味方になってくれる人が必要だとおもう。どうやって味方をつくっていくのか、そのこともかんがえていきたい。

 

 

 ところで、みんないろんなであいのなかで会員になっている。それも体育同志会をひっぱってきた方ばかりだ。なんか、かんがえぶかいなぁ。。。

 

 

この集会はのちの中間研につながる。今回のシンポジウムはプレ企画だ。ということで、中間研ではそれぞれの方が民間研の組織的活動をすすめるさいにどんなことを課題としていくのかを問題提起してもらいたい。

 

自分にしかできない問題提起だ。

 

それぞれの方のおもいを組織的活動の中に解消していくことこそが本来の筋となるべきだろう。

 

中間研も「若者いいたいほうだい」という出発点はいいが、終着点が民主的な組織的活動の展開方法にいたるよう軌道修正が必要だろう。自分たちのライフワークとしての成長過程について議論し、民間研を自分たちのものにしていく作業になればよいのではないだろうか。

 

結果的にそのことが話し合われている意味で、関西はやはり先をいっている。研究成果(特に教育方法)が典型化され「同志会らしさ」という共同幻想にしばりをかんじるということは、組織的活動においてもあらわれており、教育研究をすすめる主体性や能動性の抑制がはたらいてしまっているのだ。もう一度自分たちのものとして民間研の活動や実践研究をとらえ主体性や能動性をかいふくしていく過程を今全国的にたどっているようにおもう。

 

 

追記(2015、3、8)

 

今ふと携帯のメモ機能をみていたら、こんなメモをみつけた。

 

冬大会の冊子を編集するときに「これは自分がやる必要があるのだろうか」「こんなに体裁をととのえる必要があるのだろうか」という疑問をもったときにこんなうけみではいけない。ちょっとかんがえてみようとメモしたものだ。自分の立場が反映されているため一般化することはできないが、記録としてここにはりつけておく。

 

 

 

■ 大会提案集を編集して、その意義、意味。

①そもそもなんのためにやっているのかの再自覚。
 ほめられたいわけでも業績をつくりたいわけでもなく、民間教育研究運動を下支えすることは教師の教育実践の自由を保障することにつながるし、民主主義の権利行使にむすびつく。編集作業はその目的に準じた自発的な行為であり、作業のウェイト評価は己自身がきめる。もちろんその作業の成果は外部からの評価をうけなければならない。つまり、ほめられる必要はない。目的が明確であればおのずとできが問題になる。

②作業過程を要素ではなく単位としてみる。
 そもそもこの企画は誰がたてたのか。誰が印刷会社とやりとりをしたか。企画者・運営者・執筆者・印刷会社がいての編集であり、提案集作成編集は作業過程のひとつにすぎない。誰かがその他の仕事をしている。とすると、自分だけが抱くべき感情ではなく組織的(相対的)な問題としてその意義づけを考えていきたい。

③生かすも殺すも、自分次第。
 作業はたしかに大変だ。だが、それをいやいややったり、ただルーティーン作業としてのみこなすならそれまで。この機会に、作業しながらいち早く内容を理解していく、作業しながら成果と課題、次の大会企画を構想する、作業しながら論構成や文章表現を学ぶ、作業しながらアイディアをいただく、そんな決意をする。

人生は一回しかない。たえず自分の中で吟味して、自分の納得をみつけたり、最善をつくさんとな。
 
 
ちなみにここ数年冬大会の体裁がととのっているのにどれだけの人がきづいているんだろうか(笑)
 
まぁ、かつて自分が参加した冬大会で体裁がぐちゃぐちゃでよみづらいなぁとおもっていたので、自分としてはあとからよみかえしやすいしこれでいいかなと思う。研究資料として残されるので、体裁がととのっていると引用とかしやすいしな〜たぶん。あとにのこすためにもよい体裁をととのえていきたい。今年もやりますよ。