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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

運動会についてー第145回冬大会の報告より、メモー

運動会

 先日朝日新聞の耕論で内田さんの記事をよんで運動会についてすこしかんがえてみました。

 

そこでは、①学習指導要領においては運動会と正課体育との関連が曖昧になっていることや②運動会が子どもたちの社会・地域生活にどのような影響をあたえることを願って実践を展開していくのかをかんがえていくことを課題としてあげました。

 

今回は、丁度匠の会でNさんが運動会実践を報告するということをきいて、その勉強もかねて運動会をめぐる議論を整理してみたい。

 

テキストは2013年に発行された『運動文化研究』で、2012年に開催された第145回全国研究大会冬大会の報告が掲載されている。

 

<丸山報告>

 大会提案集では丸山さんより大会テーマに関連して運動会・学校行事の実践課題を案内している。

 

 丸山さんは体育同志会の『運動会・体育行事の指導』(1984)を参考にして、運動会・体育行事のねらいが次の3つにあることを説明している。

 

①地域との結合と学校文化の創造

 「運動をめぐっての住民と学校の協力によるお祭り」

 

②主人公としての子どもと教師の指導

 子どもが主人公となるためには「スポーツ分野の自治的行動能力「管理・運営能力」が必要

 

③運動会は教科での学習を結集する総合的な教育活動の場である

 体育授業での学習を運動会にどのように結実させればよいのかが実践課題

 

と整理している。②と③は前回もふれた部分だ。ただし③については神谷論考にしめされた「陶冶的体育行事」としての意義であり、制野らの「訓育的体育行事」は①にふくまれている。

 

また丸山さんは戦後の生活単元・行事単元時代における課題を①行事、正課、自由時の性格や役割、およびその関連が明確ではなかった、②指導に膨大な時間がかかった、③正課の学習(話し合い、計画づくり、練習など)がおおすぎ、④系統的な学習についての配慮が不足していた、⑤教師の多忙化と過重負担、の5つにまとめている。

 

 ①については前回学習指導要領の位置づけとの関連で曖昧さをのべた。上記の「陶冶的体育行事」と「訓育的体育行事」の区別とも関連していることであろう。また上記の5点は最近あつかっている瀬畑実践についての課題をしめしてもいる。

 

<中西報告>

 中西報告では体育同志会における運動会実践を分析する中で、運動会実践の教育的価値が、①スポーツの組織・運営を自治的に学習する場として、②スポーツを中心とする総合的な学習の場として、③体育授業の発展の場として、④縦−横の関係の拡大と時間的限定による感動の共有の場として、⑤学校と地域を接続する環として、機能することにあるとしめしている。

 

これを丸山氏がしめしたねらいとあわせて理解していきたいとおもう。

 

 

また中西さんは教科外体育(運動会・運動部活動)実践における発達段階をふまえた自治の育成を次のように整理している。

 

①小学校段階

 ある程度教師がリードして子どもたちの要求をくみあげたり、作品づくり(ふりつけや道具の工夫)のように子どもたちが自分たちで決定する範囲を限定したりして、自分たちで決定したという実体験を保証しつつ、全体的には教師がコントロールする。

 

②中学校段階

 スポーツ大会やスポーツ部活動の運営に関する様々なてつづきを顧問(教師)が日常的な活動の中で指導しながら、できるだけ生徒自身にかんがえさせ、実行させることが課題となる。中学生ともなると相当な組織・運営能力を発揮する。生徒会主導で運営する場合にも意思決定の場に教師が立会い、助言をあたえたり、方向修正するなど、教師によって意図的・計画的に子どもにまかせることが必要である。

 

③高校段階

 「自分たちのことは自分たちで決定し、自分たちで実行する」という原則のもと、科学に裏打ちされた自治的で民主的な運営を遂行する。高校生になると対校戦や大会運営にもたずさわり、対外的な組織・運営能力を育成する。教師は、できるだけ生徒の自己運動を援助する立場で指導力を発揮する。 

 

 以上中西報告では、「スポーツ分野の自治的運営能力の育成」という観点から運動会実践の発達段階をみすえた指導過程についてゆたかなイメージをあたえてくれる。教師のもつ決定権・管理権をすこしずつ子どもたちに委託していきながら子どもたちの自治集団活動の範囲を拡大していく城丸さんの教科外教育における自治集団活動論とも一致する(『城丸章夫著作集』)。

 

<神谷報告>

 神谷報告はタイトルにあるように、制野実践を分析することで運動会指導の系統性私案を導出した論考となっている。

 

 神谷論考では運動会を「子ども、教師、地域住民の連帯と団結による『意志』表明の場」と定義している。

 

 そして、丸山氏の「祭り(Fest)がもつ教育力、文化的・教育的価値という視点から運動会の意味を問い直すことが今求められているように思う」という点に同意しながら、運動会においては、地域社会に存在する「祭り」を「そのまま」実施するのではなく、教育的な価値をくみとり、計画的に指導していく必要があるとのべる。

 

 

では、神谷さんがしめす運動会指導の系統性私案を紹介したい。

 

(1)教師は最初に子どもの生活理解(生活課題の把握)を基盤にして地域住民、教師、子どもの「意志」を把握し、それを運動会の目標にくみこむ。

 

 

(2)教師が設定した目標(「意志」の目標化)を、運動会のテーマにくみこむこと。(※教師の目標をかくしながら子どもにきづかせていく指導)

 

 

(3)自分たちできめたテーマにもとづいて、自治集団活動にとりくむ。自治集団活動の「核」は自分たちで決定したテーマであり、決定内容(自治内容)がテーマと適応しているのかを点検・修正することが必要。

 

 

(4)3つの場面において、教師のもっている管理権を委託するイメージで子どもに決定させていく共通の指導をおこなう。

 

特にテーマは、どれだけ自治集団活動が広がったとしても「核」として位置づき、自治集団活動の質を規定する性質をもつため、(2)の実行委員会での「目標のテーマ化」にむけた指導過程が重要となる。

 

制野実践の場合それは次のような特徴をもつという。

 

①「運動会の開始時点でテーマの元に全校が結集し、終了時にはテーマの元に新たな決意を抱けるものにならなければならない」等の説明がかかれたプリントを配布しながら、テーマに関する説明をし

 

②「何のために運動会をするのか」という「意味を問う」指導を繰り返し(「なぜ、何のために団結するのか」等)

 

③イメージがわからないようであれば、具体例を通して教師が設定した目標に気づかせ、

 

④それを子どもの言葉で表現させていくという段階に整理することができる。

 

 

 この目標がさだまったときに具体的な種目決定や運営方針・内容の決定をしていく。そして(3)の「自分たちの決めた内容は、本当にテーマにあっているのか」という視点からの自己点検・修正によって、「連帯や団結による『意志』」が強固になっていく。

 

図はのせられないけれど、神谷さんは上記のような運動会実践の指導過程を、テーマという「核」に、プレイ、組織・集団、条件の「自治内容」を「肉付け」するというイメージで捉え、図式化している(運動会指導の系統性私案)。

 

 

さて、神谷論考では中西報告が①「自治集団活動の範囲を、プレイ場面(小学校段階)から組織・集団の自治(中学校段階)へと広げる見通しを示したが」、「小学校段階でも、プレイ場面だけでなく、組織・集団の自治も行われるという多様性を含みこんだうえで、指導の見通しが示される必要がある」ということ、②制野実践のように運動会を「連帯と団結による『意志』表明の場」とするのではなく、「運動会が教科外『体育』と捉えられ、『スポーツの組織・運営を学ぶ場』という前提で議論が進められている」ということを指摘している。

 

そして、中西らのかんがえかたを「陶冶的体育行事」とし、制野らのかんがえかたを「訓育的体育行事」と区別し、「教科外活動における指導の目的と合致しているのは後者ではないだろうか」と主張している。

 

その理由として「陶冶的体育行事」は授業でも指導可能である一方、教科外の運動会では地域、人格、生活、「意志」といった「スポーツの組織・運営について学ぶ」ことにとまらない広義の教育内容がふくまれてくるということがあげられている。

 

前回私は学習指導要領の位置づけで運動会とは特別活動としての目標が上位目標として位置づき、体育的行事としての目標が下位目標に位置づくことをしめした。

 

この点からのべると神谷さんの主張は学習指導要領との一致がみられる。

 

ただ、教科学習の発展としての教科外体育と生活指導の発展としての教科外体育という位置づけの是非や各学校の教育課程づくりの柔軟性の保障を考慮するとき、両者をどういう関連でとらえていくのかはまだまだ検討をようするであろう。

 

冒頭の丸山氏がしめしたねらいも両面をあわせもった記述となっている。

 

神谷さんがしめすように学習指導要領での曖昧さが研究レベルにおいても課題として表面化されているのであり、今後は陶冶・訓育の視点からどう教科外教育を教育課程として位置づけていくのかをかんがえていく必要がありそうだ。