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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

朝日新聞耕論「体育で何を鍛えるか」からかんがえる

さて、朝日新聞の耕論に内田さんと坂上さんの上記タイトルに関連するコメントが掲載されている。

 

さて、まずは内田さんから。内田さんは体育界にとって本当に貴重な人物だ。生命をまもる学校が生命をうしなう場になってしまうことをつよく社会にうったえ、おおくの改善例をうみだしてきた。世論をうごかす力もあって、変革のアプローチも非常に信頼できる。

 

 

内田さんは2010年度までの10年間で小・中・高のスポーツ活動中に発生した死亡事故は364件で、特に部活動では「教育のため」を大義名分にすえて勝利至上主義を正当化し過酷な練習を実施することでその件数がおおくなっているという。

 

この実態に内田さんは、「(スポーツ)科学を重視していない日本の体育指導の在り方を象徴しています」と問題提起をしている。

 

とはいっても神奈川県の調査では教員よりも外部の専門的指導者のほうが長時間の練習をさせたいとかんがえる傾向があるようで、科学的知識をもつとされる専門的指導者の導入を推進すればよいという話ではなさそうだ。

 

では、運動会について。

 

運動会で組体操ブームが10年くらい前からおこり、荷重にたえきれずにピラミッドが崩壊し落下・骨折する事故が後をたたないという。

 

内田さんは「そもそも組体操には体育としての意味がほとんどない。どんな能力が身につくのかが説明できないから、学習指導要領にも入っていない。」と強調する。

 

内田さんは教材としての組体操の問題に着目していることがここからわかる。

 

組体操の目的は「子ども・保護者の感動」であり不安・不満の声は全体の「感動」の前には無視されてしまうのだという。「運動会がショー化」している問題だ。

 

最後に内田さんは柔道では死亡事故への対策が進行し、1983年から30年間に118人が命をおとしているけれど、この3年間では障碍がのこる例はまだおきているが、死亡事故は0だということを紹介して、「スポーツは時に命にかかわる危険なものだという意識を持つことがまず必要だと思います」とまとめている。

 

そもそも運動会はどういう教育課程上の位置づけなのだろうか。

 

朝日新聞の表題は「体育で何を鍛えるか」ということで、「体育」とあるし、また「鍛える」とある。

 

運動会は学習指導要領では特別活動の中の「(3)健康安全・体育的行事」に分類されているものだ。特別活動の目的は「学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。」とさだめられている。基本的にはこれが上位目標となる。

 

そしてそのうちの「体育的行事」では「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての理解を深め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」という(下位目標)がさだめられているのだ。

 

いうまでもないが、「安全な行動の体得」が文言にふくまれている。いくら表現運動とはいえ、安全性をかいた演技はみとめられないということだ。

 

また前提として特別活動の目標である「集団的活動における自主的・実践的な態度の育成」が重視されるように、基本的には「体育的行事」は生活指導の領域だということだ。

 

ちょっとここから海野さんの論考「なぜ授業を潰してまで運動会をするのか」より(『たのしい体育・スポーツ』1991年秋)を参考にしてすすめていきたい。

 

 「生活指導が展開される教科外の領域は、学級会、児童会・生徒会といった自治的活動、および行事、クラブ・部活動などの文化活動、遊びその他における自治的・集団的な行動の領域からなり、体育的行事としての運動会もここに属することはいうまでもない。」

 

「運動会が生活指導として展開されるということは、なによりもまず、学級の自治的活動を基盤とした全校集団の民主主義的な実践過程として指導するということである。そして「自治的行動能力の形成」,ここに運動会でめざす目標も收斂されていくといってよい。

 

 ただその場合、運動会はあくまでも体育的行事であって、自治的活動一般に解消されない文化活動としての特質をもっている。


 そのため「全校集団の民主主義的な実践過程」というときの「実践」というのは、まずは、文化的実践、文化の創造的活動であり、したがってそこでは、子どもを単なる文化の受け手としてでなく、新しい文化の創造主体として育てることをめざして指導されることになる。さらにその文化的実践は運動会に関して言えば、スポーツの総合的イベントの開催、スポーツ文化の創造的活動にほかならず、したがって子どもを新しいスポーツ文化の創造主体として育てることをめざして指導されることになる。
「スポーツ分野の自治的行動能力」これが運動会で子どもたちにつけたい力である。

 

  運動会とはこのように文化性と民主性という二つの側面を併せもつ行事なのであり、その規模たるや時間的にもまた内容的にも最大級で、全校の児童・生徒、教職員そして地域・父母も含む文字通り「全員参加」の壮大な行事であるだけに、教育課程のなかでもとりわけ重みのある教育活動として位置づけられるのである。

 

このように運動会とは「スポーツ分野の自治的行動能力」の育成がもとめられ、そのための各種委員会活動の組織や準備・運営の総合的とりくみがねらわれるということである。

 

だから、朝日新聞は「体育で」とあるけれど、正確にはこれは「体育的行事で」という表現になるだろし、「何を鍛えるか」というとからだとか運動能力とかだけではなくて、「特にスポーツ分野の自治的行動能力を鍛える」という表現になるだろう。※ちなみに朝日新聞はなぜ「鍛える」と表現したのだろうかとうたがってしまった。ピラミッドは一体感は鍛えるが体力を鍛えることにはならないということをねらった表現ではないことを願う。

 

なので、内田さんの「そもそも組体操には体育としての意味がほとんどない。どんな能力が身につくのかが説明できないから、学習指導要領にも入っていない。」というのは、正課体育の視点でかたっている部分おり、ここは「体育的行事」の視点からみると「意味がほとんどない」とはいいきれないだろう。

 

なぜなら組体操は10段ピラミッドだけではないからだ。身体運動を大集団・中集団・小集団によるコンビネーション演技として多様にくみあわせてゆたかな表現をうみだすことができるからだ。

 

 でもリズム運動による表現としては10段ピラミッドは表現性がひくいだろう。とっても時間がかかるからだ。音楽にのってリズムよく表現したり全体が動きをみせるなかでいくつかのピラミッドができたりするならばよいが、百数十人がごそごそとうごく10段はみにくいだろう。もちろん安全性の面から10段なんてそもそもやるべきではないことが当然だが。

 

ところで、以下のサイトをみると10段の理由が「クラス全員で」という統一感・一体感の演出を目的とすることがおおきいといえる。

 

日本記録は10段! 巨大化する「組体操ピラミッド」の危険性 - NAVER まとめ

 

たしかに「まとまり」「一体感」というのは表現性としてはもとめられる視点である。やはり組体操(教材)が表現運動という点では内在的に10段ピラミッドを許容する原理はふくまれているとかんがえてよさそうだ。リズム運動をかいした表現としては不適切だが、体操競技跳馬のような表現としては評価されもするからだ。

 

内田さんは「ショー化する運動会」として「教育的配慮のない見世物としての運動会」を批判しているが、そもそも運動会はショーなのだ。でも重要なのは内田さんが指摘するように「教育的配慮のなさ」であり、私たち市民がのぞむべきは「安全かつ表現性のたかいショーを子どもたちなりに『自治的に企画・運営する』」ということだ。

 

 

なので、10段ピラミッドの問題は発達段階にあわないとか、安全な指導ができないとか、教育的指導の問題としてあつかわざるをえないだろうとおもうが、どうなのか。。

 

 

 

もちろん、自治的行動能力といっても子どもたちが運動会で保護者・地域住民に発表する身体表現運動を緻密につくりあげることはできない。そこで、正課の体育との統一、海野さんのいいかたでは「体育授業の行事単元化」が必要になるということである。

 

「体育授業において系統的に学びとる知識や技能は,子どもの身についた「生きた学力」となるには運動会という自治的・集団的・創造的な活動をくぐり抜けなければならない.逆に,運動会での自治的活動は,日常の体育授業を中心とする教育実践の中で獲得された知識や技能をその基礎・土台とすることによってはじめて自治的活動となりうる.また,運動会を成功裏にやりとおす中で得た集団自治の力や意欲は,日常の授業や学校生活にはね返ることで日常の教育実践の土壌をいっそう豊かなものにしていく.両者はそういう関係にあるのである.」

 

だから教師が原案を提出すにしても、それを子どもたちが討議していく、さらにはちゃんと論点をふまえて討議できるように体育授業(器械運動・陸上運動)で「技術と表現」をめぐる理解をしておくことが必要となる。

 

ところで、ややこしいなぁとおもうのが次のこと。

 

学習指導要領では教科活動と教科外活動の区別が曖昧となっているのではないか。 

 

 教育課程からみると特別活動は「正課体育」ではない。であるけれど、「体育的行事」と表現されるように「体育」と目標をともにすることとされている。いったい正課体育と正課外体育をどう関連づけてとらえているのかがよくわかりずらい。「体育的」なんて曖昧な言葉が残存していることが複雑さをまねいている印象をうける。

 たしかにこれは学習指導要領総則の「学校における体育・健康に関する指導は、生徒の発達の段階を考慮して、学校 の教育活動全体を通じて適切に行うものとする。」という記述と関連しているものだとかんがえら、一貫性や関連性を示唆する点ではよりよい教育活動を展開するという趣旨にそうもので納得できるものである。でもここでしめされている「体育」とは「身体活動をとおした教育」というものだろう。教科指導と生活指導という点をどう交差・統一させようとしているのか、実践的研究をベースとして文言をかえていく必要があるようなきがする。

 

うがったみかたをすれば、「特別活動:体育的行事」のために「体育」をするということになる。生活指導のための「正課体育」になりさがってしまう危険性をあわせもっているのだ。逆に教科指導のための「正課外体育」になってしまう危険性もあわせもつ。

 

どんな文言がいいのであろうか・・・。

 

ちなみにこれは前回紹介した瀬畑さんのソースボリュームをもちいたバレーボール実践と関連している。

 

瀬畑さんは1960年、生活体育と評される時代に、校内球技大会の開催にむけた体育授業を実施している。これは上記に指摘した「校内球技大会(教科外体育)のための(教科)体育」という問題をふくんでいたものです。しかしその構図を打開すべく開発(?)したのがソースボリュームといわれる学習資料でした。

 

正課体育で学習資料の中身を説明し、子どもたちが自主的に自分たちの練習を組織していき、より合理的な計画をたてる力をみにつけるとともにたしかな戦術・技術の獲得をめざしたのでした。

 

でもそこにはやはりおおくの問題がしょうじてくるのです。たとえば瀬畑さんのバレーボール実践では、協力的に参加しない子への対応や能力差が露骨にでるポジション選択・試合メンバー抽出の苦悩、審判の公正なジャッジをめぐるトラブルなどの問題が実践記録で報告されている。

 

あわせて注目すべきは瀬畑さんがおこなった組織領域の学習内容でしょう。現在教科外体育で「スポーツ分野の自治的行動能力」を形成しようとするときにどのような学習内容を設定し自分たちの行事をつくらせていくのかという点で参考になりそうです。

 

また瀬畑さんたちは校内球技大会の実施(学校における体育的生活の組織)が、学校外でも、さらには社会にでても、自分たちの日常に運動生活をとりいれていくような子どもを育てることをめざしていました。

 

つまり、運動会という行事をとおして子どもたちにスポーツ分野の自治的行動能力をはぐくむとするならば、具体的には日常生活のどのような場面で運動会のとりくみがいかされていくのかをみすえていかなければなりません。

 

1つは「地域行事としての地区運動会の継承・発展をめざし、ローカルな運動文化実践を展開する」ことにあるのかなとおもいますが、いかがでしょうか。

 

そのためには宮城でよくやられているように地域をまきこむ運動会の実践がやはりもとめられてきます。またじっくりとかんがえていきたいですね。

 

あ、坂上さんの「規律重視は兵士養成のなごり」のことをわすれてた・・・。まいっか。

 

ちなみに、メモとして稲垣さんの指摘と分析をはりつけ。

 

http://inamasa.blogspot.jp/2014/09/blog-post_24.html

http://inamasa.blogspot.jp/2014/09/blog-post_32.html

 

 数理的合理主義におちる可能性があるぞと注意しつつも、内田さんにぜひとも福島の調査にものりだしてほしいと切望しておられます。たしかに組体操がというよりも10段ピラミッドが問題だという理解の方がよいかなと自分もおもいます。