TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

ハーバーマスを教育論に援用するために―ハーバーマスの真理性をどう理解していくのか、マルクスとの関係は?―

次は別府さんの著書にもどろうともおもったのですが、ちょっときになったことをメモしておきます。

 

ちなみにタイトルだけいっちょまえですが、以下ど素人の日記なので、その手の人は(?)よまないでください(笑) 

 

前回、二宮さんがハーバーマスを紹介していることをしめしました。

 

堀川さんの『世界を変えた哲学者たち』によると、ハーバーマスはドイツうまれの哲学者で、マルクス主義の「労働と自然」というわくぐみでは「生活世界」の存在が喪失されるとかんがえた人です。

 

ハーバーマスは人間は3つの要素から関係性が制限されるとかんがえました。

 

つまり、①権力、②貨幣、③コミュニケーションです。

 

人間の関係はまず権力によって制御され、権力関係がなければ秩序がうまれないとかんがえます。次に貨幣による制御システムがなければ、需要と供給からなる市場(秩序)がうまれないとかんがえます

 

そして権力(政治)・貨幣(経済)とは別にコミュニケーション的理性(生活)の世界があるとハーバーマスはのべます。

 

私たちが考え方の差異が生起しても権力(命令・暴力)や貨幣で解決しようとせず、了解をめざして対話をします。このコミュニケーションが成立する正解を「生活世界」とよんだのです。

 

ハーバーマスが「生活世界」にもとめたのは、コミュニケーションが支配する生活世界にたいして、権力と貨幣がはいりこみ、この生活世界を支配するのを阻止することでした。

 

では学校空間はいったい「権力(政治)世界」なのか、「生活世界」なのか、という疑問をもちました。このことをもうすこしかんがえてみたい。

 

二宮さんが紹介したコミュニケーション的理性(対話が成立する条件―普遍的妥当要求―)とはハーバーマスが「生活世界」として権力や貨幣とは別の人間の関係性を制御するあり方でした。

 

これはもともとは4つあるものです。

 

宮原さんの訳(『ディアロゴスの現象学』)によると、

 

①話し手と聞き手が相互に理解できるように、話し手は理解可能な「わかりやすい」表現を選ばねばならない=「理解可能性要求」

 

②聞き手が話し手の知識を分かち持てるように、話し手は、真なる命題内容を伝達しようという意図を持たねばならない=「真理性要求」

 

③聞き手が話し手の言表を信ずることができるように、話し手は自分の意図を誠実に表出しなければならない=「誠実性要求」

 

④聞き手が、その当の言表を受け入れることができ、その結果、聞き手と話し手の両者が、その言表において互いに認められた規範的基礎に関して相互に合致できるように、話し手は、既存の規範や価値に関して正当な言表を選ばねばならない=「正当性要求」

 

というものです。

 

そして、①の理解可能性要求は唯一文法上の問題でありパートナー間の「了解」の本質構造を解明する普遍的遂行論にとって考察の対象からははずされます。

 

したがって、二宮さんも3つをあげているのです。

 

前回同様、「言明の真理性」、「発言の意図にかんする誠実性」、「発話行為が相互人格的に承認された規範的素に対応しているかどうかという正当性」という3つの要求がみたされているかどうか、これが対話の成立において問題になるのです。

 

では教育空間は権力空間を前提にしてなりたっているということをどうかんがえるのか。生活空間のコミュニケ―ションの成立をどうかんがえるのか。

 

権力を前提にしたとき、コミュニケーション的理性とは何か質が変化するのではないかとおもうからです。

 

教育学にめをむけてみると、1990年代に旧来の「教える―教えられる」伝統的な教授法から子どもたちが逃避していくことが問題になったとき、佐藤や佐伯らをはじめとする教育学者によっと「教え」から「学び」への指導観の転換が強調されるようになりました。

 

このとき確認されたのは、教師が教えたこと(teaching)が子どもの学び(learning)にむすびついているかということでした。

 

「学び」とは教師の教授内容を能動的にうけとるのではなく、子どもたちがみずから対象的世界に問いをなげかけ能動的にはたらきかけていくなかで認識を構成していくとかんがえることです。

 

したがって、「教え」という権力空間を契機としつつも、それが「学び」として生起しているのか、学習者の能動性が発揮・保障されているかどうか、を問うものなのです。

 

となるとハーバーマスのさす「権力・貨幣・生活」空間は相互媒介的なもので「権力(政治)空間」だけれど「生活空間」であるという理解でいいのか・・・。

 

あ、なーんだ、以外と単純な盲点でした・・・解決。ハーバーマスの「生活」概念は学校・学校外関係なく機能するものなのですね。。おもえば日常生活においても権力関係は成立するわけで・・・貨幣も・・・。

 

でも権力としてのカリキュラムと子どもの能動的な「学び」をどうむすびつけるのかという課題がでてきました。この問いは大事にしていきたいとおもいます。

 

それに、ハーバーマスのコミュニケーション的理性はあくまで対話が成立する条件をさすのであって、対象的認識の発展ということがどうえがかれるのでしょうか。

 

真理性・規範性・誠実性の相互関係ももうすこしつかみたいとおもいます。

 

特に、真理性に解釈はどうもストンとおちないのです。たとえば、子どもに寄り添うとき、「事実にもとづく」という意味で二宮さんは援用しているのですけれど、その後二宮さんは真理性と関連させて「真理性にねざした科学の世界」が教材の再構成化の方向目標の1つになるとあげています。

 

「私―対象―他者(集団)」の関係において、真理とは対象の性質のことで、「私―対象の真理(科学)―他者(集団)」という関係が成立することをめざすのですよね。

 

んー、「真理」と「科学」がどうもイメージが一致しないのです。「真理」は「本質」といったイメージもありますけれど、「科学」は必ずしも「本質」であるとはいえないのではないでしょうか。「科学」という意味では「真理」ではなくて「真実」というかんじがします。

 

ハーバーマスは「真理」ということをどうとらえたのかをもうすこしかんがえてみて、その上で、二宮さんの主張をハーバーマスとの関係でどうとらえていいのか、整理していきたいですね。

 

そのためには、ハーバーマスはなぜ対話の条件にふみこんだ考察をしているのか、ということもやはりみすごしてはならないでしょう。

 

で、実はすこしふみこんでみようとおもいまして、まずは堀川さんお本をよんでみました。

 

堀川さんによるとハーバーマスの主張(めざすべき社会)は、国連を中心とする世界市民の社会を形成していくということだそうです。

 

市民がマスメディアによる情報や議論を参考にしながら自分たちのかんがえをつくり、反省し、それをまたマスメディアにもどすというコミュニケーションの往復から合理的な合意が形成され、市民が主体となる秩序がうまれるというかんがえです。

 

そこでのコミュニケーションが先の3つのコミュニケーション的理性にねざした理想的対話状態であるということですね。

 

ん~~~なんとなく全体像がみえた?のかもしれません。とりあえず、ハーバーマスは対話の理想的状態が成立することを柱として、この社会や世界のあり方を構想・追究する哲学者なんだなということがわかりました。

 

まぁつかみはこんなところで大丈夫でしょう。

 

じゃあ市民たちの対話の状態がどう発展していくことをみこしているのかをみていけばいいのですね。

 

今後ハーバーマスにかんする他の本もよんでいきながら上記の理解をふかめていきたいとおもいます。ひどい解釈だとおもいますが、日記なのでゆるしてください。

 

むむむ、でもさらにきになることが・・・。堀川さんはマルクススターリン政権のときの話に限定して論じているようなきもする。不破さんの『マルクスはいきている』をよむと、どうもハーバーマスマルクスの関係が微妙だ。さらに尾関さんの『言語的コミュニケーションと労働の弁証法』のはじめの方をよむと、ますます堀川さんのマルクスにたいする解釈は一面的ではないかとおもう。ハーバーマスマルクスの関係は私には補完関係にもなりうるとおもうのですけれど、堀川さんとのとらえにずれがあります。堀川さんはマルクス主義と表現している、この点がポイントになるのかもしれない。

 

ちなみにこのときふとおもいだしたのが、今福さんのことば。

 

難しいことを否定的にとらえてはいけない。易しく読めるものの方が、むしろすでに出来上がった知のくり返しに陥っていることも多い。わかりやすいことには逆に気を付ける。わかりにくいことのほうがはるかにおもしろい。こうした感じ方を、ぜひ大切にしてほしい。『何のために「学ぶ」のか』(ちくまプリマ―新書)

 

後半部分のとおり解説本を批判したいわけではなく難解さにひるむなというメッセージをしめしている点なのですが、前半をいいとこどりすると次のようになります。

 

堀川さんのは超解説本だ。きわめてラフにかいてある。だからこそ気をつけなければならないのかもしれない。でも一方で、堀川さんの論のくみたてに学ぶ必要もあるとおもいます。

 

 そうおもって、文献にあたっていこう。すこしずつすこしずつ・・・・。

 

ちなみに、体育の人にとってマルクスの論だてはまなんでおきたいことなのではないだろうか。スポーツは余暇であり、それは必然の国と自由の国、そして必然の国の自由の国化、という話と関連することで、体育の目標をかんがえていく上で1つのきっかけをあたえてくれるとおもうからです。

 

労働と余暇ですね。これも、すこしずつすこしずつ・・・・・。