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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

子どもの「気持に」寄り添うということ―愛知支部2月例会にむけてその4―

さて、本日も前回とおなじ著書で二宮さんの部分をよんでみたいとおもいます。

 

まずは序章の部分です。

 

二宮さんは神戸大付属養護の教育実践を「障碍をみつめ、発達にそくし、生活実態にねざす」というシンプルな表現でしめしています。

 

障碍を子ども(の気持ち)におきかえても大丈夫でしょう。

 

障碍をみつめ、には障碍を固定的にとらえないで発達の可能性を発見することを意味しています。

 

発達にそくしとは、1人ひとりの子どもの発達段階に対応することと、1人ひとりに内在する発達法則にそって対応するという意味をもっています。

 

生活実態にねざすとは、子どもの現実をまるごとうけとめるということを意味しています。

 

シンプルですが核心をえているとおもいます。

 

さて、二宮さんは学校には学習主体としての生徒と教育主体としての教師の2人の主人公が存在し、両者をコミュニケーション的関係において把握しようとしています。

 

もちろん「子どもが教師をうみだす」という学習権にねざした発生的関係があるとのべています。

 

この両者のコミュニケーション関係は5つの局面、すなわち①子どもの発達ニーズの発信⇒②教師による発達ニーズの了解・合意⇒③応答的なはたらきかけ⇒④はたらきかけにたいする子どもの了解・合意(がなされるかどうか、ここに試行錯誤がうまれる)⇒⑤子どもに新たな発達ニーズがうまれる、というみちすじをたどります。

 

こうして学校のなかのコミュニケーションは子どもの発達保障の視点から出発する「権利=発達保障としてのコミュニケーション」が課題になると二宮さんはのべています。

 

ここでいうコミュニケーションとは「相互了解・合意の形成・獲得」であり、単なる情報伝達や連絡以上の意味があるのです。

 

たとえば、「〇〇さん、今日はとっても元気よく上手にうたえました」といった場合、①うまくうたえた事実の伝達、②いつよもりよかったという発話者による評価の伝達、③これからはもっとうまくうたえるようになろうねというききての行動を促進するメッセージ、などが付与されることになります。

 

では発達主体と教育主体のコミュニケーションが生成されるためにはどのような条件が必要なのでしょうか。

 

二宮さんはそれを教育主体としての教師の側にたち、ハーバーマスのコミュニケーション論から説明します。

 

①「何が真理か」が問題になる、真理性を基準とするコミュニケーション的理性

 1人ひとりの子どものなかに内在する発達法則をつかみとり、これを了解しなければならない。

 

②「何が妥当・正当か」が問題になる、妥当性(または社会性・規範性)を基準とするコミュニケーション的理性

 子どもの発達ニーズの社会性を判断・理解しなければならない。

 

③「何が誠実か」が問題になる、「誠実性を基準とするコミュニケーション的理性

 子どもの発達ニーズや欲求、主観、おもいに共感をもってよりそわなければならない。

 

です。

 

ただし教育労働は子どもの発達ニーズに了解・合意したのち、子どもの能力をひきだす目的意識性をもったはたらきかけがおこなわれます。

 

そして二宮さんはその過程もコミュニケーション的性格をもっているというのです。

 

つまり、目的意識的なはたらきかけであっても、その目的意識性は、教師と子どもの間の相互了解・合意によってでしか実現せず、力づくで丸のみさせるのは本来の教育ではないといことでした。

 

このことを「主体―客体関係」が「主体―主体関係」に転化するのは、教育労働がコミュニケーション労働としての性格をもっているがためにほかならないとずばりと表現しています。

 

これまで2回にわたって別府さんが1人ひとりの発達保障をめざす実践の中で提起した「こどものきもちによりそうこと」と「そのきもちを前むきにする作戦をたてること」を教科教育との関係でも把握しようとしてきました。

 

どうしてその着想にいたったのか、どうして関連性をかんじられたのか、そのこたえを二宮さんはしめしてくれました。

 

単純化していえば、生活指導と教科指導もともに子どもによる発達ニーズの発信と教師による応答的なはたらきかけのコミュニケーション関係が基本となるということです。

 

そのたえまないはたらきかけの連続に日々苦心し、ときにつきはなされころばされながらも、すこしでもよりよいこどもの生活を保障するためにいどみかかろうとする、教育労働とはそういう営みなんだとあらためて自覚することができました。

 

さて、終章の方で二宮さんはここでしめした「教育労働は(子どもと教師または子ども同士の)権利=発達保障としてのコミュニケーション関係の形成と発展のいとなみである」という命題を、教材づくりの視点から論じています。

 

二宮さんは「発達課題を教材化」を以下①②③の教育的循環過程としてしめしています。

 

①教師は子どもの実態から発達課題(ニーズ)そのものをよみとり、了解すること、

 子どもの実態は次の発達課題をしめす現実であり、教師からみれば次の教材を準備しなくならなくなった現実となります。

 

たとえば、体育で競争相手を前に足がすくみ力を発揮できなかったとき、「できる力」にひきよせてみると否定的現実となりますが、そこに競争相手を自覚できた子どもの力をよみとることができます。

 

人と人との間の正常な競争関係をまなぶ体育ではこうした子どもの実態をよみとる教師の視線は重要となります。

 

②教材に精通しコミュニケーション的理性の3つのテーマにそって教材を準備し、子どもにはたらきかけること、

 

では了解された発達ニーズにそってどのような教育をめざすのか。

 

二宮さんは3つのコミュニケーション的理性の世界をまたがるところにその領域があるとのべています。

 

それは、①真理を基準にした科学の世界、②民主主義的価値観を基準にした社会観の世界、③豊かな共感能力を基準にした主観的情操の世界、です。

 

教材は、これら3つの世界を教師と子どもが相互に了解・合意していくための素材、手段であるとずばりのべています。

 

体育の場合、走る力の発達は単にスピードをあげるという意味ではなく、走るときのリズム感をあじわうこととスピードを自分でコントロールするときの心地よさにむすびついるととらえます。

 

走運動はピッチとストライドの支配によるスピードとリズムのコントロールが戦術・技術的な特徴なのです。

 

大宮さんはこうした教材についての真理観にたって、リズム観とスピードコントロールを体得する場を「8の字走」として設定しました。

 

すなわち「発達課題の教材化」過程においては上記の3つの世界をゆたかにする教師の教材解釈(親しみ・活用力)をもってはじめて可能になるということです。

 

ここに教師の専門的能力がとわれる点があります。

 

③子どもの変化や反応、学習ぶりや教材との「ずれ」などから新たな発達ニーズを了解し、それに合意するかたちで再び教材をねりなおし子どもにはたらきかけること、

 

 いくら教師が教材に精通したからといってそれをかたくなに固執しては子どもの発達ニーズを把握することは困難となります。

 

教師が教材をかいした子どもとのコミュニケーション過程においては、かならず「コミュニケーション・ギャップ」(ずれ)がしょうじます。

 

一方的な指導やつよい指導ではこの点がみすごされてしまうのです。

 

たとえ子どもたちがおもうように教材にとりくんでくれないとき、かなしんだりなげいたりする必要はなく、重要なことは、教師と子どもの間の「ずれ」に直面したときに、教師の側が子どもを理解し、ひとまずは「ずれ」に合意することです。

 

「ずれ」をよみとり了解する力は、教師のコミュニケーション的理性です。

 

この「ずれ」をばねにして教師が子どもの姿からまなび、新たな教材化にとりくんでいくことがのぞましいのです。

 

 

教育活動における教授―学習過程は上記の原則をもつものだとかんがえ、今後の実践づくりにかかわっていきたい、そうおもいます。 

 

おもえば出原・中村の出発点は授業における子どもの声にあり、「へたなやつはへたなりのポジションでがんばればいい」「イギリス産業革命とスポーツの発展との関係は?」という声が背景にあって精力的に研究をおこなっていったことをおもいだします。

 

また、子どもが発信した「ずれ」は生活指導においては学級文化への要求としてはねかえしていくものかもしれませんが、教科指導においては教材となる文化的世界への要求としてはねかえしていくものではないでしょうか。

 

つまり教科指導においては、その子どもをこまらせる、つまづかせるのは教材の背景にある文化の側に原因があって、しかもそれは文化に内在的な要素であり、ならば、子どもと一緒にどう文化をつくりかえていけば、その文化が1人ひとりを大切にする文化になりえるのか、疎外要因をへらしていくことができるのか、そこをかんがえていこう、そんな姿勢をもつことがもとめられるのではないでしょうか。

 

だからこそかなしんだりへこむ必要ないと二宮さんはいっているようにもきこえます。

 

 

 

最後に二宮さんはこれまで教師の側からでしたが、今度は子どもの視点にたって、子どもがたのしいとよろこんでかよえる学校づくりには「わかること」と「できること」が統一されるように追求されることが必要だと説明しているところがあります。

 

この点は前回のべた、「子どものきもちによりそい、はたらきかける」=「子どもがみえないものをみえるようにする、わかることが必要なんだ」ということと関連してくるとおもうので紹介しておきます。

 

 

すなわち、コミュニケーション的理性による「わかる力」(真理がわかる・規範がわかる・ともだちがわかる)の育成が、同時に子どもたちに「意欲の喚起」をよびさまし、それが「できる力」をひきだすというのです。

 

またその意欲の源泉はおおきく3つのポイントがあるとのべています。

 

①目的意識性にゆたかな活動課題である。

 その日には何をするのかの見通しがもてるような、課題意識が明確な活動は達成感をよびおこし意欲を喚起する。

 

②ゆたかな共感・応答関係につつまれた活動課題である。

 他人に共感をもって承認される充足感をよびおこし意欲を喚起する。

 

③その活動に自分自身でたかい評価能力をもつ課題である。

 当事者みずからが活動にたかい価値や意義をみいだし評価をする能力をもつとき、意欲がわいてくる。

 

こうして、二宮さんは「目的意識性をもった活動課題」「共感・応答関係につつまれた活動課題」「活動への評価能力をもつ課題」を子どもたちにとりくませ、コミュニケーション的理性にねざした「わかる力⇒意欲の喚起⇒できる力」という循環の中で子どものたのしさがふくらんでくるんだと強調しています。

 

ここで二宮さんは「教師によるコミュニケーション的理性」はそのまま「子どもによるコミュニケーション的理性」として子どもにみにつけさせたい力でもあるということを主張しているのです。

 

 

子どもがともだちとの間でおこしたトラブルは、トラブルの真理やともだちがわかって行動の意味が了解され、次にまた再発しないように新たな規範がわかり、了解されたときにまた新しい関係がうまれていくのです。

 

その上に教科教育が成立し、①真理を基準にした科学の世界、②民主主義的価値観を基準にした社会観の世界、③豊かな共感能力を基準にした主観的情操の世界をこどもにまたがせていくのですね。

 

なんだか引用メモばかりになってしまいましたが、だいぶ別府さんのはたらきかけが理解できてきました。

 

例会前に理解したことをまとめておくことが必要ですね。。。

 

 

そろそろ別府さんの著作にもどりたいとおもいます。