読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

子どもの「気持に」寄り添うということ―愛知支部2月例会にむけてその3―

さて、本日は

 

『コミュニケーション的関係がひらく障害児教育』(青木書店、2005)

 

を参考に、「子どもの気持ちによりそうこと」と「その気持ちを前向きに方向づけるための作戦をたてること」についてかんがえていきたいとおもいます。

 

前回成瀬さんの論考をたよりに、上記の課題を教科教育にひきよせてかんがえてみました。今回はそのつづきです。

 

著書の中で大宮さんは教材づくりについて次のようにのべています。

 

私たちは子どもたちが運動文化にふれ、自分の身体意識を高め、体づくりを通して、自分づくりをすすめることを大切にしてきた。

 

体育の教材化には、教師自身が運動文化の楽しさの内容をどのように捉えるのか、同時に子どもたちが運動文化のおもしろさを味わう力をどの程度蓄えているのか、見抜いておく必要がある。

 

つまり運動文化の側からと子どもの側からとの両方を複眼的に捉えて教材化していくことが必要である。

 

こうして大宮さんは両面をもちながら教材づくりにはげみ、おおくの教材を開発してきました。詳細は著書『特別支援に役立つハンドブック 体育遊びゲーム』をご参考に。

 

その仕組みをもうすこし紹介したいとおもいます。

 

<教材の側からのアプローチ>

 

大宮さんは運動文化のたのしさを「身体活動を通して仲間と向きあいながらコミュニケーションをもつことにある」とかんがえるとともに、

 

技術的に「できる」ことにくわえ「わかる」ことが重視されなければならないとかんがえ(たとえば、走るコースがわかってこそリズムがつくりだせる、競争ルールがわかっているからこそ、はやくはしれるなど「わかる」がともなうことで「できる」にふくらみがでてくる)、

 

以下のような教材づくりの3つの視点をとらえています。

 

①子どもの可能な動きが100%発揮できる教材づくり

 あるく・はしる・とぶ動きを中心に、そこに集団だからおもしろいという内容を設定すること。小学部では円をぐるぐる走るからこそ集団の渦ができはしりたくなる。

 

②道具や用具を活用して動きをひろげる教材づくり

 ボールをはじめ、縄やフープ、とび箱などを使用して動きをひろげる。子どもたちにとって新しい動きを体験することは、自分との新しいであいの場となるし、自分の身体意識をたかめるうえでも大切となる。

 

※障碍をもつ子は意識的な身体制御がむずかしいため道具や環境からうごきをひきだしていくことが課題となるのでしょう。

 

③既存の運動文化をヒントにした新たな教材づくり

 運動文化のおもしろさをうしなうことなく、子どもたちの実態と課題(発達ニーズ)にあうように変化させる。

 

 

<子どもの側からのアプローチ>

 

大宮さんは上記のような教材化の視点とともに「子どもたちの発達段階や生活年齢に留意することが大切になる」とのべています。

 

①小学部の例:神経系の発達が進行。ゆたかな身体感覚を体験し、さまざまな身体の動きをひろげる。運動の遊び的なたのしさ、教師と一緒に味わうおもしろさ、体を動かす快適さが重要。

 

②中学部の例:第二次性徴の出現。男子は筋力がつき、女子には身体にふくよかさがでてくる時期。小学部ではぐくんだ身体感覚や身体操作を力一杯発揮できるとりくみが必要。自己や友人にたいする意識もふくらんでくるから、教師を媒介にしたともだちとの共同関係も大切。

 

③高等部の例:仲間のなかで力を発揮できるようなとりくみが大切。それは自分を仲間のなかで位置づける時期であり、身体エネルギーを自分なりに調整して、自覚的に身体を操作していくことが必要となってくる時期だからである。

 

こうして大宮さんは運動文化の側から3つの視点をもち、同時に、発達段階にそくした子どもの側からの視点をもち、教材づくりをおこなってきました。

 

その1つを紹介するとポンポンホッケーというものがあります。

 

教材的価値については詳細ははぶきますが、カラフルなポンポンのついた直径30センチのパックを、T字ぼうき使用して掃くようにしてはこび、ゴールにシュートするものです。2階だてのゴールの上部にはいったシュートはゴール下部にはいったシュートの10個分にあたります。

 

コートの工夫はさまざまにあって個人でたくさんいれるものや対決式のものも設定できます。

 

そのため発達段階や生活年齢にあわせてルールを工夫することで、認識発達では1歳半から7歳ぐらいのはばがある子どもたちがさまざまな形態でたのしむことができるのです。

 

さて、ポンポンホッケーをやりはじめて、ゲームになかなか参加できない自閉症のKがいました。

 

ある日、それまで3方向のゴールをめざすゲームをしていたのですが、3つのチームがいりみだれるので、意図的な作戦や動きがつくりにくく、これを解決するために、本来のホッケーのおもしろさであるパックのとりあいゲームをおこなったのでした。

 

1対1の3本勝負で、相手ゴールにシュートします。

 

やりとりが苦手な自閉性障碍の子どもたちにはうばいあうおもしろさをつたえるために、教師との対戦をし、うばいあう動きをひきだすようにしたそうです。

 

そして、それまでホッケーにくわわることができなかったKは自分ができるとおもったのか、参加するようになりました。

 

名前をよばれるとうれしそうに声をだし、体育館のフロアをはしりまわってゲームにくわわったそうです。

 

このとき教師たちは「ポンポンホッケーが嫌といわけではなかったことを教えられた」とかんじたそうです。

 

※ちなみに、よく体育嫌いが問題にされるのですけれど、この教師たちのきづきにあるように、何が嫌いなのかをかんがえてみることが重要なんだろうなとおもいます。すき・きらいの量的な指標ではざっくりと「体育の時間」がきらいとなりますが、その実体は単に「運動が嫌い」というよりかは能力差を人格格差としてみてしまう評価観の問題や仲間とたのしむ関係づくり(戦術・技術をかいした対等平等で協同的な関係づくり)がうまくいかなかったことなどが原因になっているのでしょう。この点を解明する子どもの気持ちによりそう調査はどこまでやられているのだろうか、ゆくゆくはとりあげてみたいなとおもいます。

 

ただし、kはゴールにパックをいれきらないうちに自分の理解でシュートがきまったことにしてしまうのでした。

 

そこでゴールのなかに鈴をつけた紐をはって鈴の音がなるまでパックをゴールにいれるようにしたそうです。

 

ルールというものを互いに合意・了解してすすめる必要があるからです。

 

次にパックをとりあううごきです。

 

Kはすきなものをともだちとうばいあうことはあったがパックのとりあいはなかなかはいってこなかったそうで、とる・とられない動作を教師がつたえる必要があったのでした。

 

好きな教師が相手だと動作がつたわりにくかったので、男性教師に相手役をわりあて、Kの横にすきな教師がよりそうようにしてつき、男性教師がとったパックをゆびさして「とって」と声をかけ、うばいとる動作を提示していく。

 

これをくりかえすうちに自分からパックをうばいシュートするうごきができたそうです。

 

次に3本勝負の1つではゆっくりとかかあわりあい、うばいあう動きがつくりだせるように大きなパックを準備しました。

 

予想どおりKはよろこんでパックの上にとびのってよろこびました。教師もKがのっているパックを一生懸命おしすすんだので本人も満足してたちあがり、次のパックをだせとうながしていたようです。

 

こうして大宮さんたちは、1人ひとりの子どもの特性から子どもが参加したいとおもう環境をつくろうとし、そして教材を介したかかわりの中から子どもの文化への要求をさぐり、こたえようとしていくのです。

 

著書の中で佐藤さんはこの過程を教師と子どもの教材のとらえかたの「ずれ」をうめる作業としてとらえています。

 

ひとつは教材のとらえかたが教師と子どもでは異なるという「ずれ」

 

もうひとつは教師がかんがえる子どもにとっての教材のおもしろさと、実際にこどもが感じる教材のおもしろさとの間の「ずれ」

 

です。

 

Kの参加やおもしろさの質の発展をめぐるかかわりあいはまさにこの「ずれ」をうめる作業としてかんがえられます。

 

そして、

 

子どもと教師のずれは、教師の世界に子どもを一方的にひきよせようとすることではな解決されない。こどもが何に興味をしめしているのかをしり、その理由は何かをかんがえ、そのうえで、教師がその教材の価値をつかみなおし、それを子どものわかる力に応じて展開するという、相互のコミュニケーションをとおして解消されなければならない。それによって子どもの表現が変化をとげ、教師と子どもが相互に教材をふかくとらえることができる。

 

とのべています。

 

子どもの気持ちをかんがえ「ずれ」をうめようとすることで新たな教材の魅力・価値があらわれてくるのです。

 

教師は子どもの価値によりそうことでみずからの価値をくずし、新しい価値を再創造していく必要がある。教師と子どもの相互のコミュニケーションをとおしてその教材の魅力(=価値)をひろげ、ふかめていくことが教室文化の創造につながっていく。

 

上述のポンポンホッケーもこどもとのさまざまな「ずれ」とむきあい、解消していくなかで創造されてきた教材です。

 

最後にKがおおきなパックによろこんでとびのったのもパックのやわらかさという魅力とKのたのしみをむすびつけたもので、それによってパックのうばいあいへの意識をたかめ、ポンポンホッケーをよりKの文化として享受させていったのでした。

 

このように、子どもの気持ちによりそい、その解決策をたてる、ということを教科教育の課題としてひきとったときには、教師と子どもの教材のとらえをめぐる「ずれ」をうめることでもあります。

 

そして佐藤さんがのべるように子どものつまづきや友達とのトラブルにたいして、その子どもがみえなかったもの、不可思議で対応にこまっていたものを、みえるようにする、きづくようにしかける、という子どもにとっての「わかる」を保障していくことが不可欠になります。

 

特別な教育的ニーズを保障する場合も、子どもにとっての「わかる」を保障する作業が必要となってくるのだとおもいます。

 

子どもの気持ちによりそい、子どもの前向きな気持をひきだそうとすることは、子どもが「わからない」「こまっている」事実にみとおしをもたせてあげることでもあるのでしょう。

 

むむ、著書の序章と終章のところで二宮さんがハーバーマスの理論をもとに「コミュニケーション的理性に依拠した『わかる力』」についてはなしをしています。

 

次はこれをよんでみようかな。。