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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

子どもの「気持に」寄り添うということ―愛知支部2月例会にむけてその2―

愛知支部の活動

さて,本日は「子どもの気持ちに寄り添う」ということについてもうすこし考えてみました。

 

別府さんが著書で「子どもの気持ちに寄り添うこと」と「その気持ち(発達要求)を前向きに方向づける作戦をたてること」という実践課題を提示している部分をよんで、ふと以下の成瀬さんの論考をよみなおしたいとおもったからです。

 

「高校生の現実(いま)に突き刺さる授業をしたい」『体育科教育』2006年4月号

「体育・スポーツの見方がかわる体育理論の教材づくり」『体育科教育』2005年5月号

 

表題にあるとおり、成瀬さんは高校生の現実(いま)に突き刺さる体育理論の授業がしたいとかんがえています。

 

成瀬さんは授業イメージについて次のようにのべています。

 

生徒たちの意識からは全く無関係な位置にある歴史や社会や科学や文化を彼等の意識の内に近づけ、その渦中にある自己を自覚させる。

 

言い換えれば、スポーツにおける歴史や社会や科学(これらを総じて「文化」といってもよい)の学習(認識)を土台に自身のスポーツや武道、舞踊などの運動文化への見方を問い直し、そしてその延長線上にある社会観や世界観にまで彼等自身で言及していくことである。

 

こうして高校生にスポーツ観の問い直しを迫るのは、今日のスポーツのありようをリアルに捉え、その批判的検討をふまえて、未来のスポーツ文化の創造と発展の担い手として育ってほしいと願うからである。

 

そして成瀬さんは授業づくりの課題を2つあげています。

 

1.高校生の現実(いま)をどう捉えるか。彼等を取り巻くスポーツの状況や彼等自身がスポーツをどうとらえているか、どうみているか、その背景や問題点は何かという現状認識。

 

2.高校生が学習すべきスポーツ文化の内容であり、授業づくりの具体的な手立て。

 

こうして成瀬さんは「文化の学び」によって人格をも変容させざるをえない事実とであわせることをめざしています。そしてそのためにも高校生の現実(いま)を鋭く分析していく必要があると説明するのです。

 

とくに高校生にとってはエリクソンからいうと「自分は何者か」と自分自身をふかくといはじめる時期です。自我(自己)同一性(アイデンティティ)確立の時期ですね。

 

この時期は自分のできなさや他人と比べての自分にむきあってしまうことで自己を見失い混乱してしまうことがおおくあります。

 

社会とは何で自分は何者で、どこにいるのか、どう生きていくのか、そんな疑問をもちつづける高校生とむきあってきた成瀬さんだからこそ「現実(いま)に突き刺さる」授業がもとめられてきたのだともかんがえられます。

 

これは、別府さんがしめす課題と類似しているのではないでしょうか。

 

 

いくら学習内容がゆたかであっても子どもたちの現実(いま)に突き刺さらなければ、子どもたちにとって生きる力につながるゆたかな学び(自己への問い、人格の変容・ゆさぶり)が生起しないのでしょう。

 

 

かつておなじく高校教師であった榊原さんは教科内容を設定する視点から次のようにのべています。

 

文化から引き出される内容は子どもから引き出される課題に導かれて構造化されなければならない。内容の構造化の動機は子どもでなければならない。教育実践は運動文化論のために性急であってはならない。(『運動文化研究』1995)

 

 

たしかに運動文化の主体者になるために、またゆたかな運動文化のありかたを味わわせるために学ばせたいことはでてくるとおもいます。しかしそれが子どもの世界観とひびきあうように設定されなければ「ずれ」はうまらず、上記の目標は達成されなくなるのでしょう。

 

私のしりあいからきいた話ですが、こんな例があります。

 

大学生であるSさんは運動が苦手で体育が嫌いでした。Sさんは体育の時間「私に構わないで」と強調します。

 

自分が練習(学習)の流れをとめてしまうことにひけめを感じているのです。

 

さらにSさんは他者からアドバイスされることに拒絶しストレスを感じてしまうようです。

 

それは、他者からの助言や意見を攻撃や非難とうけとめてしまったり,教えようとする他者の自分への見方(自分を低くみるような評価)がきになってしまったりするためです。

 

こうして他者との関係性や目標の合意,助言しあえる安心した関係性がつくられなければ学習における協同的な関係性はうまれえない場合があるのです。

 

ではこのSさんが仲間とともに劣等感をかんじず学習していくためにはどのような中身が必要なのでしょうか。

 

体育の場合、運動文化に内在する相対的な能力観や評価観、平等観などとどうであわせていくのか、ということが1つの鍵になるとおもいます。

 

たとえば、出原さん(『体育の授業方法論』1991)はかつて「うまい」「へた」観の変革を実践的課題として提起しています。

 

出原さんは「うまい」「へた」観の変革の契機として以下の4つをあげています。

 

①「へた」を未学習の状態としてみる(まだ学習していないだけ),

②「うまい」「へた」を誰でもはじめは「へた」だったとみる,

③「うまい」と「へた」は表裏一体のものだとみる(うまい人にもどこか必ず「へた」がある),

④「うまい」「へた」は途中経過とみる,

 

また出原さんは上記の視点を方向づけるものとして、運動文化に参与するものはみな「技術の傾斜」に位置づくとのべます。

 

つまり、自分よりうまい人はこれからうまくなる未来の自分の姿を、自分よりへたな人は自分がたどってきた自分の過去の姿をうつしだすのです。

 

 異質協同の学びは他者を媒介として現在の自分が過去に学びながら未来の自分へとあゆんでいくみちすじをてらしてくれるのです。

 

 

このかんがえには,「うまい」「へた」を相対化する視点があります。他にも以前紹介した山本さんの実践で勝敗の決め方やルールを工夫することで誰もが対等に運動文化をたのしめることについて言及しました。

 

 

競争社会の気運がたかまり競争教育が制度化されている現在にあっては競争原理をもつ運動文化はややもすると子どもたちの生きづらさを助長し疎外状況をまねきかねません。

 

 

しかし運動文化は能力差や体格差を戦術や技術をもっていかにクリアしてともにたのしみきそいあうのかを論点としてルールや道具の工夫がなされ発展させられてきたとみることができます。

 

 

子どもや大人、障碍をもつ方や老若男女が、ルールや環境(施設・道具等)を工夫すれば誰でも協同的な関係をつくってコミュニケーションすることができるのです。上述したように「うまい」「へた」についても異質協同の世界ももちあわせています。

 

子どもにとって、また運動文化の民主的発展にとっても、この視点からの学習内容の措定がめざされるべきだとおもいます。

 

Sさんの中にねづよくのこっている、「へた」なものは(周囲の進度をおくらせる)否定される存在だという価値観(ものの見方・かんがえかた)にたいして、運動文化を介してどのようにゆりうごかし、相対化する視点(自分をおもいこまなくてもいい視点)とであわせていくのかをかんがえることが、必要なのです。

 

成瀬さんがある日孫基偵の授業(体育理論)をおこなったときの子どもの感想では、

 

「マジに走らないで、ドベでもよかったのに!」

「実力があったから(金メダルを)とれたと思うので、もう少しうれしそうにしてもいいんじゃないかな」

 

という声がでてきたそうです。

 

 成瀬さんはこの感想にたいして、生徒をとりまく消費文化が「オリンピックで走る」という行為を社会的関係の総体で捉えるのではなく,自分の快・不快を思考や行動判断のモノサシとして,個人の感情レベルに留めてしまうのだとのべています。

 

Sさんのように能力観や評価観として競争社会でうみだされた負の感情が顕在化される場合もあれば、運動文化をめぐる社会的・政治的問題への鈍感さにも顕在化される場合があります。 

 

したがって、①現状認識をするどくし、子どもの気持ちが何をあらわしているのかをよみとくこととあわせて、②教材の文化研究(教科内容研究)が不可欠となるのでしょう。 

 

特に後者の点で成瀬さんからはおおくの示唆をえられます。最後にこの点を紹介しておきます。

 

成瀬さんは体育理論の授業づくりをするさい,教科内容を2つの観点から検討されています。

 

1つは,「生徒の必要」という観点です。目前の高校生にとって何が必要かという立場からの検討です。 

 

 2004年度の体育理論実践はアテネオリンピックを教材とした。「今日的社会状況の中で『平和と人権』は高校生が未来を生きていく上で重要な課題であると判断したから」で,21のテーマにもとづく発表をきき,話し合っていくと最後には「平和と人権」がうかびあがってくるという仕組みの授業をつくっていった。

 

もう1つは,素材としてのスポーツ文化に内在する普遍的な意味を検討することです。

 

 例えば,「ラインの授業」では,コートにおけるラインの意味を問いつつ,イギリス下院のソード・ライン(剣線)に内在されている「暴力の排除と民主主義の発展」という普遍的な意味を教科内容の柱に据えることであり,「ボール(ゴルフボール)の授業」では,ボールの変革過程に人々の思いや願い,科学技術の進歩,価値観や社会的条件の反映を見いだすことである。

 

こうして成瀬さんは「生徒の必要」と「普遍的な意味の検討」を統一的に把握したところに教科内容をもとめていきました。

 

この教科内容が生徒のなかにストンと落ちたとき,感動したり,疑問をもったり,知的好奇心にみちた眼をしたり,そんな真剣に物事を受けとめようとする高校生の姿を知っているのです。

 

「体育・スポーツの見方を変えていくには,教科内容が醸し出す“優しさ”こそが,基本に据えられなければならない」とものべています。

 

子どもを主体としてうけとめる眼をもつと同時に社会の側からも子どもの願いやいきづらさをみぬく眼をもち、そしてその上で文化の側から「子どもの必要」にこたえるために、文化に内在する人間の幸福や平和への願いや“優しさ(愛)”を見る眼をもとうとするのです。

 

ちなみに別府さんが次のように表現していることは上述のことと同様のこととおもいます。

 

 明日への「希望」をもち続けるためにも、それぞれの人の発達を、ライフサイクルの中で見通しをもちながら考えていくことが大切です。

 

別府さんが1人ひとりの子どもの発達保障をめざす中でみつけられた「子どもの気持ちに寄り添うこと」と「それをもとにしてどうすればそうした発達要求を前向きに方向づける作戦がたてられるかということ」ということは、そのまま成瀬さんがあげる体育理論の授業づくりの2つの課題とつうじます。

 

2つの視点は教育実践論として教科教育においても共通の課題をさししめすものだとおもいます。

 

もっとふかめていきたいですね。

 

きっと成瀬さんが教科内容が醸し出す”愛”にきづいたように、子どものきもちに徹底的によりそったとき、運動文化自体がその魅力(価値)を変容していくことも想定されます。

 

障碍児体育から多くのアダプテッドスポーツや新しい運動文化観がうまれていることが証明ずみですね。ということで、次は大宮さんの論考をよんでみたくなりました。