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TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

子どもの「気持に」寄り添うということ―愛知支部2月例会にむけてその1―

愛知支部の活動

本日は、2015年2月21日13時30分から伏見の愛知青年会館で開催されます愛知支部の月例会の準備として

 

別府悦子『発達障害の人たちのライフサイクルを通じた発達保障』(全障研出版部)

 

をよんでみたいとおもいます(宣伝の意味もこめて)。

 

月例会で別府さんの報告があるためです。

 

うーん、様々なテーマを同時並行でも蓄積できるのがブログのいいところだなぁとおもいます。

 

さて、以前特別支援学校のKさんの報告をきくなかで、「子どもの気持ちに寄り添う」ときには「子どもの(声にならない)声をきく」ことがとっても重要なんだなとまなんだことをしめしました。

 

 日常的な問題行動がどのような欲求や要求をもっておこなわれているのかをよみとくことはその子どもにとっての必要をうめてあげることができるはじめの一歩となるのです。

 

たとえばKさんのとりくみの1つとして、他者との関係においても問題行動がおきたときに、その子どもの真意をくみとって、その子どもになりきって「『〇〇してはいけないんだ!』、っていいたかったんだよね?」と代弁することを大事にしていました。

 

Kさんは子どもの気持ちををめぐる様々な要因をかんがえて、子どものせいにしない教育をめざしています。

 

ちなみに以前に佐久間さんの講演を報告した際も、実践記録は「今日はあの子どもに寄り添うことができたのか」をふりかえり、次のはたらきかけを考えるためにかくものなのだということをしめしました。

 

 

「子どもの気持ちに寄り添う」、この言葉は教育実践において大事なキーワードになるのですね。

 

でも、言葉自体はとっても抽象的です。なので1つ1つの事例をもとに説明しないと、「子どもがやりたいようにやらせる」といったような教師の指導性を(隠すのではなく)なくしてしまう一面的な理解におちいってしまい、わるい状態へとむかえば、逆に子どもが教師を被支配関係においてしまうことにもなりかねません。

 

この点について別府さんの本になるほどなとおもうことがかいてありました。

 

別府さんも「子どもの気持ちに寄り添う」ことは、ときに「子どもがしたいようにさせる」「甘やかす」ことと混同されることがある、と強調します。

 

そして、著書にも掲載されている熊本実践から「子どもの気持ちに寄り添う」ためには、前提が必要だということにきづかれたのでした。

 

1つは「子どもの行動の背後にある、あるいは激しい行動の裏に隠れて見えない発達のねがい(発達要求)を読みといていくということ」です。

 

 子どもたちはときに「自分よりも下の学年にまけたくない」というプライドや「こんなんできへん!」というそれまでの失敗体験が原因となる劣等感や自己否定感、または「不安なんだよ」「先生、ぼくをもっと見て」といった寂しさや人を求める気持ちなどをもっています。問題行動としてかたづけてしまうのではなく、それを発達要求としてとりあげていくということですね。

 

もう1つは、「それをもとにして、どうすればそうした発達要求を前向きに方向付ける作戦が立てられるか、ということ」です。

 

 熊本実践では読み書きに顕著な苦手さがみんなの前であらわになるのが怖い子どもがいて、その子の気持ちを前向きに方向づける作戦として「これはまだ3年生はだれもしていないねん」といって「花◎プリント」のとりくみをおこないました。

 

「花◎プリント」は①おわりがすぐそこにみえる、②短い時間でできる、③仕方がわかっている、④少しずつで種類がいっぱいなので「たくさん」という気持ちにならない、しかけがされており、それが子どもの気持ちにフィットしたようで、1時間のうちに3枚もするようになったのでした。

 

この「花◎プリント」が1つの契機となって「俺のはすごいぞ」という自尊心をくすぐり、徐々に自分を肯定的にみつめることができる場面がふえていったのです。

 

別府さんはこの2つの前提をもとにこうのべています。

 

熊本実践が、「子どもの気持ちに寄り添う」ことが単に「甘やかし」ではなく、子どもの発達を保障する方策になっていたのではないかとかんがえます。「先生なんかきらいや」の背後に「先生と手をつなぎたい」という願いが隠されていたこと。1年生に負けるのはいやだが、3年生の課題はむずかしい、それでは、そうしたプライドや失敗への怖れを十分に理解した教材や教授方法をかんがえること。また、荒れている時には、気持ちがおさまるまで、ぐっと抱きかかえること。そうした考え抜かれた「気持ちへの寄り添い方」ができるところに、熊本実践の専門性の高さをみてとることができます。

 

ただし、教育現場や教師に混乱をもたらす子どもたちの心の荒れや暴力には、それぞれ程度や背景も異なり、対応方法にも十分な検討が必要です。時に医療ケアや福祉からのアプローチが必要なこともあるでしょう。しかし前提として、やはり子どもの真のねがい(発達要求)を理解することと、それをもとにした緻密な作戦がたてられることが欠かせません。そのためには、教師がひとりでかかえなくてもいいような学校内外のサポート体制や仲間の存在(教師集団の団結)がもとめられます。全国で悩んでいる先生方がこのような子どものつなぎあいの実践ができ、そうすることで子どもたちも自分を否定しないでいることができるような学校生活をおくることをねがっています。

 

紹介がおくれましたが、別府さんは岐阜県で巡回相談員として通常学級にいる特別な教育的ニーズが必要な子どもたちとどのように教師が関係をつくっていくのか、また子ども同士の関係をつくっていくのかを追求してきました。その中で学級担任とだけではない子どもをめぐる様々な学校・家庭・地域での協力関係を構築されて、子どもに変容をもたらした事例がおおくあります。なので最後のメッセージは現場教師の困難に寄り添いながらの、切に願うメッセージとなっているのだとおもいます。

 

さて、別府さんにまなべば、「子どもの気持ちに寄り添う」というときには「子どもの『気持ちに』寄り添う」という強調があっていいのかなと感覚的ですがおもいます。

 

以前紹介したKさんも「子どもの声なき声に耳をかたむける」と表現していました。

 

子どもの何に寄り添うのか、という「何に」にあたる部分は、教育実践において意図的なはたらきかけが前提となる大切な点になるのではないでしょうか。

 

単に「子どもに寄り添う」というと子どもとの共感的な関係だけな印象をもってしまうようなきがします。そうではなく、「子どもの気持ちに寄り添う」というときは、別府さんのいう②のはたらきかけが強調されるようにおもうのです。単に「ああ、いまあなたは怒っているのね、その気持ちをわたしはまずうけとめるよ、あなたの見方だよ」というメッセージをつたえるだけではなく、「ところで、いったいなぜこんな行動や言動をしたのだろうか」「そこにはどんな「気持ち」や「願い」(発達要求)があるのだろうか」とかんがえていくことが大事になるからです。

 

もちろん言葉の解釈は自分の主観的な問題でもありますので、一概にはそうとはいえません。自分の納得の仕方としてここにのしるさせていただきました。

 

また「子どもの気持ちに寄り添う」ということを子どもの必要をよみとるという意味でかんがえたときに、それは問題行動への対応のことだけではなく、教科教育におけるゆたかなまなび(学習要求)を保障していくことも視野にはいってきます。つまり、「子どもの気持ちに寄り添う」ことは、教育実践のはじまりといってもいいかもしれません。子どもの発達要求を他者との関係の中で生起した様々な出来事の中からよみとるとともに、その子どもにとってよりよい学習(発達)要求もよみといていきたいのです。

 

教科教育も特別な教育的支援をようする子どもたちにまなぶ必要があるとおもいます。それがどこなるのか、もうちょっとかんがえてみたいとおもいます。

 

ふとあたまによぎった論考があるので、次回はそれをよんでみたいとおもいます。