TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

学校体育固有の文化領域は運動文化とかんがえて―運動文化論をまなぶその1―

先日参加してきました体育同志会の研究会にてまなばないといけないなとおもったもの、それは、

 

運動文化論・・・

 

いったいこれはなんだろう。

 

体育同志会にいると運動文化論という話題がでることがあります。

 

でることがあるというのも,体育同志会が戦後60年間継続してきた研究の背景には、この運動文化論という学校体育をかんがえる支柱があるのです(つたないですが前回はこのことにふれました)。

 

 

さて,運動文化論とは字をみると運動文化に関する理論であります。なので学校体育のことだけを問題にした理論ではないのだろうなとまずおもいますね。

 

 

おそらくこまかく問題状況をみていくとそう簡単には定義できないのだとおもいますが、ひとまず以下のようなとらえを入口にしてこれからかんがえてみたいとおもいます。

 

運動文化論とは、

 

人間が運動文化によって生活を豊かにしたり人々の幸福や平和に貢献したりしていくためにはどういう運動文化のあり方が望ましく、またそのためにどういう運動文化をささえる組織や社会の構造をもつべきなのか、このことを私たちに問う理論のこと。

 

 

 

近代になって積極的に学校体育の背後には運動文化(※)が対象領域として位置づけられるわけですけれども,まさにこの中心となる教材が運動文化なので,運動文化のあるべき姿をつきつめようとする運動文化論はそのまま学校体育の教育目標を規定し内容や方法,そして評価の方向性を示唆する材料になっていくのです。

 

※身体運動文化ととらえるべきかもしれませんが、とても私の手にはおえないので、ちょっとここでは狭義的にとらえて運動文化としました。

 

 

ということで,この運動文化論自体は体育同志会の専売特許ではありません。

 

まさに理論なのですから,誰にとっても問いかけられている理論なのです。

 

ある意味運動文化を「みる,する,ささえる」立場にあるすべての人々にとっての理論なのです。

 

だから,学校体育関係者だけではなくて,(プロ・アマ)スポーツ界関係,レクリエーション関係,文化人類学民族学)関係,などなど多くの人にとりくまれなければならない開かれた理論であるということです。

 


では,この運動文化論が今日における運動文化をめぐる問題状況をどう整理し、論点をみいだしていくのでしょうか。

 

そして、この運動文化論を今日においてどのようにひきとっていくとよいのでしょうか。

 

そこから、学校体育になにが要求されることになるのでしょうか。

 

運動文化論を自分たちのものとしてあらためてとらえなおしてみたい。そんな想いから少しずつのわずかな歩みですが,勉強していきたいとおもいます。

 

といっても、どこから手をつければよいのだろうか、、、誤解もうまれるかもしれないですけれど、これから1つ1つの論考をてがかりにしていきたいとおもいます。

 

 

早速今回,その手掛かりとして,『たのしい体育・スポーツ』2015年1・2月合併号をえらんでみました。。

 

 

体育同志会の創設60周年記念号ということで,特集は「運動文化論を学ぶ,生かす,発展させる」としてあります。

 

 

でも論考をよんでいたら久保さんが引用している『たのしい体育・スポーツ』2007年1月号の高津さんの論考がきになってしまいました。

 

 

ということで、高津さんの論考

 

「運動文化論の誕生―スポーツが人間・社会を創る―」

 

をよんでみました。

 

高津さんは丹下保夫が1946年11月24日にかきとめた「スポーツか生産か」という論考を出発的として、運動文化論の基本構想についてのべています。

 

ただし高津さんの論考では「運動文化論の誕生」とかかわって運動文化論の特徴について論じたものなので、直接的には運動文化論が提示する課題にこたえるものではありません。

 

なので、高津さんが論じていることの一部を恣意的にぬきだして、そのことをあらためて自分の関心にひきよせて整理してみたいとおもいます。

 

以下は本来の趣旨をくみとったものではないので、ご容赦ください。

 

 

さて、運動文化論が誕生した背景と関連して、運動文化論には以下の3つの柱(理論的枠組み)があると高津さんはのべています。むずかしいのですが、むりやり自分の解釈にひきよせてまとめてみたいとおもいます。

 

①人間は運動文化の自己目的的な活動の中で、人格や人間性の発達をとげていく。

 

 マルクスによると、人間は何かの手段としての活動によって人間形成がなされるのではなく、その活動自体の発展や、活動からえられるよろこび自体を発展させていこうとすることによって人間形成がなされていきます。

 

つまり、人間は運動文化への自己目的なはたらきかけをつうじて運動文化を発展させるとともに、その過程において自己形成・諸能力を発達させるのです。

 

なので、運動文化もそれ自体の発展やよろこびの発展をめざした活動の中でこそ人間形成がなされていくことになります。

 

さらには「身体活動は人間の本質からうまれるものであるかぎり、自己目的であって他の何らかの目的の手段であるわけではない」のであって、なおさらそうなのだというこということです(たぶん)。

 

こうして運動文化がもつ人間形成的機能が注目されたわけですけれども、それが実際に機能するためには人間の生活の中で運動文化はどのような位置にあるのかが問題になってくるのです。それが次の柱になります。

 

②「ひまが人間をつくる」=「自由時間に展開する自主的・自発的なスポーツ(運動文化)が“人間を創る”。

 

(本文まとめ)

 「労働」は義務や束縛であって「必然の領域」である一方で、人間は「文化・余暇」にあらわされる「自由の領域」において自発性とよろこびを拡大し人間性を開花させていく。つまり、「スポーツ・運動文化は、『自由の領域』で展開し、そこにおいて人間は素質・能力を自己目的的に発揮する。だが、『自由の領域』に展開する運動文化は、その分野で人類が歴史的に蓄積してきた対象的富と自由時間の拡大を必要とし、労働を存立の条件とする」。こうして人間形成に立脚する運動文化は「諸文化活動、社会活動との統一的視点」を要求する。

 

※さらには「自由の領域」で育まれた人間性は「必然の領域」の「労働」を「自由の領域」における「自己目的としての労働(生活欲求としての労働」=「真に自由な労働」へと転換することが可能となる。(ブログ:「必然性の国」と「自由の国」は並存的関係か?)でも、労働はいかなる社会形態からも独立した存在条件であり、「永遠の自然必然性」であるとものべているようで、これは『資本論』をよんでみないと何をいっているのかは具体的には理解できないのかも・・・。

 

(本文まとめおわり)

 

 つまり、自由な時間での主体的な活動(自己実現)が人間をつくるのであり、基本的に自由な時間でおこなわれる運動文化も「人間をつくる」機能を根本的にもつものであるということです。

 

そして、運動文化をおこなう時間をつくるためには、生活する上で必要最低限の生産活動をなるべく効率よくおこなったりまたそれを代替的に処理できるお金を獲得していったりと、労働が必要になるということですね。

 

これはもう少し見方を拡大すると、運動文化の活動をしていくためにはそのための労働条件(社会的・組織的体制)をきづいていかなければならないということにもつながります。

 

そのため次の柱が要求されてくるのです。

 

 

③運動文化は人類の幸福や平和をもとめる国民の要求とむすびついて発展してきたのであるから、これからも「国民運動文化の創造」と「それを支える体制の創造」という2つの目標がめざされなければならない。

 

 運動文化が労働とむすびついているように、運動文化は国民・勤労者自らが自分達の地域や社会におけるよりよい生活と幸福をもとめる中でうまれてきました。

 

そのため運動文化の発展はある一定の組織的な運動や体制によってになわれていきます。たとえば、「生活と権利を守る国民の諸運動、国民教育運動、自主的・民主的スポーツ運動」などです。

 

すなわち運動文化は、平和と民主主義、人類の幸福をもとめる国民(市民)とその運動を媒体にし、あるいは、それとむすびつくことによって成立してきたのです。

 

したがって、運動文化が人類の幸福や平和に貢献していくためには、国民のための国民による運動文化の創造とそのための体制の構築がめざされていく必要があるということです。

 

こうして運動文化論は社会的な基盤と主体の存在をうきぼりにしていきました。

 

 

 

さて、この3つの理論的枠組みから何をまなびとるのか、もうすこし整理してみたいとおもいます。

 

ひとまず上記のことからポイントを2つにしぼってみると、

 

<「ひまが人間をつくる」=「自由時間に展開する自主的・自発的なスポーツ(運動文化)が“人間を創る”>

 運動文化は人間の生活(労働と余暇)の片輪であり、それは主体的活動(自己実現)をとおした人間形成をになう重要な領域となっている。でも運動文化が人間形成をにない、人々の生活を豊かにしていくためには運動文化が自己目的的に追求されなければならないし、そうするだけの時間が必要になり、労働を要求することになる。

 

②<運動文化は人間の幸福や平和をもとめる国民(市民)の運動によって発展されるべきものであって、国民(市民)のための運動文化とその体制の創造がめざされるべきである>

 

ということになるのでしょうか。

 

①のポイントは「なぜ運動文化が人間の生活(人類)にとって重要なのか」という問いを背景として、人間の生活(生産活動と余暇活動)における運動文化の役割やその意義について言及したもので、特に運動文化の人間形成機能を人間の生活構造との関係からいいあてるとともに、文化として発展させるべき重要な対象なんだということを示唆しています。

 

 この点にかかわっては、具体的な事例をもとにして、現代の人々が運動文化をどのように生活の中に位置づけ、そのことがどう生活を豊かにしているのかを具体的においかける中で、かんがえていきたいとおもいます(いつか)。

 

②のポイントは「運動文化が人々の生活を豊かにするためにはどういう発展のプロセスがのぞましいのか」という問いを背景として、運動文化の発展過程の望ましいプロセスについて言及したもので、その柱として国民(市民)の豊かな生活や幸福・平和への要求を基盤とした運動文化とその体制の創造を提示しています。

 

 この点にかかわっては、現代において国策としてのスポーツもおおきく発展してきていたり、グローバルな時代になって多様な運動様式がでいりするようになってきたりしています。運動文化が何かの手段として追求される中では人間形成につながらないというマルクスの視点も論点になりそうですね。ただ高津さんの論考ではこのポイントについてあまりくわしくとりあげられていないので、「国民運動文化とその体制の創造」という提起をもっと理解していきたいとおもいます。

 

 

それにしても・・・むずかしいなぁ。。先もながそう。。