TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

いま、実践記録をかく意義について―民教連冬の学習会その3―

さて、民教連冬の学習会初日です。

 

講演として、佐久間さんから、子どもに寄り添う教師の学びとは、いまあらためて実践記録をかく意義を考えよう、がありました。報告では若手ですばらしい実践報告をかいた菊池さんもなんども登場しました。

 

一部内容を紹介していきたいとおもいます。

 

①実践記録は死語になったのか?


「実践記録という言葉を知っていますか」、この問いをとある大学四年生むけの講義でしたところ、挙手する人はいなかったそうです。

 

ましてやとある教職大学院の管理職にすすむ人たちの講義でも挙手がなかったそうです。

 

 

佐久間さんはそんな事実をしめしながら、今や実践記録は死語になっているのではないか、となげかけます。

 

かつて教師の生活綴り方であった実践記録を、今一度教師のものにしていく運動が求められるというのです。


②過去(歴史)に学ぶとはどういうことか。


しばしば教師は実践記録をかく時間なんてないんだ、過去のことをふりかえるよりも次の計画を考える方が自分にとって必要なんだ、そんな声をきくことがあります。

 

たしかに教員を苦しめる教育行政の動きによって多忙化する教師の日常についてはつねにうかがっています。

 

だから自分はこういう話がでたら、そうだよね、今回の実践を計画からかんがえて、しっかりと総括ができるようにしていきましょうとなげかけてきた。

 

しかし、過去の出来事をふりかえる(省察)ということは、決して未来を軽視するものではないし、むしろ未来へのたしかな自分のあゆみを明確にしてくれるものなのだと佐久間さんはいいます。

 

佐久間さんは医者の例をだして説明しました。

 

たとえば、医者は治療後にカンファレンスの時間を設けて処置が適切であったのかを省察していく。もし医者があやまった治療法で患者を死においつめてしまったときに、多忙のためふりかえることをさけてしまったら、次もまた患者を殺すのかということになる。

 

処置はどう評価できるのかを考えることは次の処置を決定する手がかりになる。

 

教育は唯一の正解がなく、今日(今学期)の私のあの子への対応はどうだったのか、子どもにより添えていたのか、を検討し続けるしかない。

 

佐久間さんはいいます。

 

省察こそが、対人専門職の専門性をなす。

 

省察とは、悪いところ探しではない、

 

自分の意識や感情に気づくだけ(内省)ではない、

 

明日の実践より過ぎてしまった過去に向き合うだけ(振り返り)ではない。

 

省察とは、子どもの学習の価値や、教師の支援の妥当性を、しっかりした根拠に基づいて考察し、未来を創るための意識的で能動的な思考のことである。

 

と。

 

ものすごい説得力ですね。佐久間さんは話が丁寧で話し方もおだやかなのに、メッセージが伝わる表現力をおもちでした。実践記録をかくことは過去から学ぶことですが、そのことの意義を見事にしめしてくれました。でも佐久間さんの主張はこれだけにおわりません。いま、という時代をしっかりとみすえた時代論的な提言をされました。

 

③子どもの学びの事実を、保護者や社会に「言葉」で伝えていくこと

 

身体測定やテストの評価などの数量的データだけでは子どもの成長はみえてこない。

 

子どもの学びを質的データ(文章や語り)で保護者と語り合う必要がある。

 

大切なことは文章でかかなければ伝わらない。

 

子どもの学びや教室のドラマを文章にして、保護者・社会に発信することで、今の時代の子どもたちの実像や教育の実態をつたえること。そのことがテストだけの学力観への1つの対抗軸になる。

 

だから、連絡だけでない学級通信の復権を、子どもの事実や物語をのせよう。

 

なるほど。子どもの実態はその時代その時代でことなるものとなります。それを縦断的な量的研究だけのデータの蓄積方法では、具体的な有効な施策はうみだされないのです。その時代の教師がその時代の子どもたちの実態を実践記録のなかでしめしていくこと、昨今の政策の是非を実態をもってしめしていこうというのです。いわば実践記録は教師の武器なのですね。むむ、以前に紹介した岨さんも教師が成長していくことにおいては、実践記録をかき、実践報告をすることが武器になるといっていましたね。

 

 

④日本の民間教育運動の理念が、今世界の最前線の理念。

 

日本はPISAショックをうけてから国際的な教育動向にますます学ぼうとするようになりました。

 

昨今では21世紀型能力やOECDのキーコンピテンシーが話題となりました。

 

そして2014年12月に諮問された次期学習指導要領の改訂のキーワードは 「キーコンピテンシー」となりました。世界中でこのキーワードが新しい学力をさすものとしてしられるようになりました。

 

そして、なんと、

 

「この『新しい学力』は、日本の民間教育運動が大正期から追究してきた学力!」だということなのです。

 

確かに体育の分野でも民間研がながらく実践研究をしてきたその成果が学習指導要領に反映されているのです。

 

キーコンピテンシー(鍵となる能力)とは①世界とかかわる力(知識や情報、テクノロジーを相互作用的に用いる)②他者とかかわる力(他者とうまくかかわりながら、対立を調整しつつ、共に仕事をする)③自分をみつめる力(自分の人生を計画し、自ら考え動いていく)ことで、「単なるテスト学力のことではなく、もっと包括的で全人的な資質や能力のこと」です。

 

「一人の市民として民主主義社会を実現し参画していくための学習」をもとめ、その学習の中心には「深く考えること」が位置づいているのです。

 

佐久間さんはその可能性と問題を両面整理されていました。

 

<可能性>

 ・今までの日本では、民主主義社会を実現するための教育をしよう、生活のなかで生きて働く学力を育てようという考え方は、一般には弱かった。(例:社会科)

 ・今までの日本の指導法、つまり授業で①を育てるだけではなく、学級経営や生活指導のなかで②や③の力も育てながら、包括的な学力を育てていく方法が、世界で再評価されつつある。

 

<問題>

 ・経済的なグローバル競争や政治状況のなかで、新しい理念が、逆に「テスト学力」へと矮小化されてしまっている側面がある。

 ・2014年5月には、アメリカを中心とする教育関係者や保護者が世界中から署名を集め、OECDPISA統括官に対し、PISAを批判するオープンレターを送付した。テスト学力編重や無意味なランキング公表には、世界中で懸念が表明されている。 

 

こうして佐久間さんは、キーコンピテンシーの包括的な学力を育てていく「これまでの」日本の教育を発展させていこうと主張されました。

 

佐久間さんがおっしゃるように、似ているからこそきをつけなければいけないとおもいます。研究会の中にはこれほどまでに新自由主義が浸食する社会になって、この時代になって、民間研の研究成果が表にだされるということは、一概には喜べないのではないか、むしろ、これまでの民間研の実践研究活動をもう一度みなおしてみる必要があるのではないか。そんな声もあがっているのです。これは一理あると思います。

 

また民間研が蓄積してきた問題解決学習や発問をベースとした探求的授業などがその理念や体系性が軽視され、活動主義的なものとなり、一人歩きすることが危惧されます。

 

OECDがもとめるものは何かをじっくりとみつめながら自分たちのこともまたかんがえていかなくてはならない。

 

最後に、菊池さんは実践記録をはじめてかいてどんな意義を感じたのかを紹介してとじたいとおもいます。

 

子どもがみえるようになる。

みようとする自分がみえる。

子どもを語れるようになる。

よんでくれる仲間がいるとわかる。

 

実感をともなった見事な説明です。

 

佐久間さんの運動をまきおこそうとする講演に、参加者一同勇気づけられたのでした。教師のしゃべり場と語り場が、必要なのですね。