TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

体育の学会に参加して

 

先日体育の学会があったのだが、刺激的であった。

 

友添さんが知識=「わかる」とする見方を転換するべきではないのか、という問題提起をおこなっていた。「わかる」「できる」「かかわる」といった枠組みで体育実践の目標像が描写されることがおおい。

 

しかしそこでの「わかる」を知識、としてしまうと、運動のポイントを理解するという1側面に矮小化されてしまい、理解した知識を活用・応用して新しい作戦や方法を考え出していく学習が軽視されてしまうのではないか。

 

また知識=わかる、とすると思考・判断の中にわかるは含まれないのか、といった疑問も出てくる様子。評価との関連で文言は規定される必要があるため、どうも知識=わかる、思考・判断=考える、といった区別をすればいいということではなさそう。

 

ちょっと横道にそれたが、「活用・応用」が語りきれないのでは、という危惧があるのではないかなとおもう。

 

一応ふれておくとアクティブラーニングとか探究的学習、あるいは拡張的学習を展開する上では既存の認知的枠組みでは十分に構造を説明できないのではないか、ということなのであろう。

 

「わかる」ってなんだ?と、認識の形成を大事にしようとする実践家なら1度は考えたことがあるだろうし、近年のコンピテンシーベースのカリキュラムでは認識方法の発展として知識、理解、活用といった段階が語られるようになってきた。

 

それに、「わかる」「できる」「かかわる」という3つの要素を考えて授業づくりをすると、どうしても幅広い認識活動がとわれてくる。

 

たとえば、考えて、なんらかの方法をみちびきだすとか、友達の能力・発達に適応させた助言をする、とか、失敗した原因をさぐり、新たな方法を仮設し、実際に試行して、確かな方法を特定する、といったように。

 

つまり、広義の意味で認知という概念が使用されるように、「思考・判断」も単純に「考える、選択・意思決定」といった部分的なものとして使用せずに、広義の意味をもつものとして考えるか、もしくは有山さんがいったように違う概念で規定するのがよいだろう。

 

とはいえ、まずは体育実践(まずは運動学習)で必要とされる認知過程を認知心理学などの知見を参照しながら、どのように叙述することができるのかを考える必要がありそう。

 

ぼんやりともっていた課題意識に光をあたえてくれた指摘だったなとおもう。

 

 

年のとりかた

桂三枝さんの落語、唐獅子牡丹を視聴していたらふと2つの話をおもいだした。

 

 

1つは

 

ある92歳のおじいさんが、おばあさんが「もう90になります」といったことにたいして「歳は自分からとりにいくもんじゃない、まだ90だ」といっていた。

 

こと。

 

なるほどなぁ〜とおもった。強引さはあるけれどおもしろい考えだとおもった。

 

あと、坪井さんの退官記念講演で、私は65なんてはじめてのことです。いつまでも初体験なんです。といっていたこともおもいだした。

 

こちらもなるほどなぁ〜そういえば64だともうすでに経験しているもんな、でも65は初体験、新入り。

 

そうやって歳をごまかし、いいきかせながら人間って生きていくんだなとふとおもった。

 

玉とる必要はなくなったけど、香典とられるがな、なんて、いつまでも現役でいる高橋さんにも、なんか哲学があるのかも。

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雨かぁ〜

明日はやはり雨になった。

 

月曜日はこれで4回目だ。

 

50%雨。。

 

うーむ。

 

今回は休講にするかどうか本当に悩んだ。

 

①学ばせたいと自分がおもっていることを十分に学ばせることができないこちらの立場。

 

 

②休講の補講を別日に設定させられる学生の立場。

 

のどちらが考慮されることなのだろう。

 

個人的には実践記録をまとめる予定もあったことから①への思いがつよかった。①は反対からみると「学びそびれる学生の立場」ともいえるわけだし。

 

でもやはり、もともとの枠内で学生たちはやってほしいんだろうな。

 

その先におもしろいことがあるとわからせることができている授業ならまだしも。。。

 

きっと、自分が大学生であってもそうだもんな。

 

さーて、明日は雨なので、

 

中村さんの「人間の部品化」の部分をちょっと長いけれどよんで、そのあと公式のルールブックをみんなでよんでその違いをきわだたせることにしよう。

 

もちろん晴れたら実技。

 

それにしても、最近おもうが今4コマでもひーひーな状態なのに、他の人は7から8コマ担当している。

 

4コマで教材研究が全然まにあっていないのだから、8コマなんてもうやっつけ仕事にしかならない気がする。

 

今度の長期休暇・・・といっても休暇にはけっしてならないのだが、後期にむけて教材研究しっかりやらないとな。

 

本当にこれで大丈夫なのかな。。。

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ちょっと安心:フラフト

これは完全に個人メモである。

 

 

フラフトにソフトに、これまでなかなか歴史と実技のまじりあいがおこらなくて、うまくいっていなかったため、足取りがかろやかではなかったのだけれど、

 

リーグ戦にはいったことで、みんながもりあがってくれてひとまずよかった。

 

前期はこのままもりあがって、無事おわれそう。

 

悩みとしては、

 

リーグ戦のゲーム回数を分散してグループ練習の時間をとるか、一気にゲームを終わらせて、フラフトの正式ルールを採用して比較をしていくか。

 

でも今日学生たちに話をきいてみたら、ゲームが1日つづけてあったもよいことを話していた。

 

ということで、やはり後半の仕組みをとろう。

 

練習方法もじっくりと学んでいないのに自分たちで練習していくことは難しいだろうし、まずはフラフトの文化的なおもしろさを追求する中で、独自のおもしろさを味わい、うまくなりたいといった欲求をひきだすことが必要なのかもしれない。

 

どうやって練習方法を学習させていくのかの構想を後期にもっていこう。

 

たぶん、チーム内ゲームができる環境にないと練習にならないんだとおもう。と今気づいた。

 

ソフトボールは正直なところ野球経験者を中心に学生たちにおまかせの状態が継続している。みなそれなりにソフトは経験していきているから、ある程度教え合いや練習内容が定まってくる。

 

ケース練習以外、どんな練習方法が、どんな原理とセットで学ばれていく必要があるのかを今回の実践をとおしてさぐっていけたらとおもう。

 

ただフラフトはまったくみんな経験がないスポーツなので、練習してといっても方法がわかんないから、ぐだぐだになる。これは、練習方法とセットで系統的学習を展開しなかった自分の問題である。

 

人数が少ない段階での学習のときに、練習方法がみえてくるような学習をしっかりとし組む必要があった。これは、フラフト全体の課題にもなっているのではないだろうか・・・なんておもって

 

みたり。

 

さぁ〜次回も晴れてくれ〜。。

 

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たばこの表示メモ

 

①ニュースでたばこの表示について財務省が変更の提案をだしたとしった。

 

 

・あらたに科学的に因果関係が示唆される健康被害項目を追記

・未成年の喫煙を禁止する文言を必須記入

健康被害を象徴する写真を表紙に利用

 

など。

 

これは動きとしてはいいとおもう。

 

健康は社会的問題だから。

 

といったところで、

 

②保健の未履修問題もわきおこった。

 

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160608/k10010550081000.html

 

歴代の校長の多くが事態を把握していましたが、事実上、黙認していたということです。これについて会見では「生徒の問題行動に苦慮していた時期に、教室で座って保健を勉強させることが難しく、体を動かす体育を充実させるほうが生徒指導に効果的だという考えがあった。その慣習が続いてしまった」

 

体育が「生徒指導上よい」とされる見解にも問題がある。

 

たしかに体育は身体運動・行動をともなうため生徒指導との関連がつよい。

 

しかし教科の目的が何より重視されるべきだろう。

 

今回の場合、特別活動などでの配慮が必要だったのかな。

 

だって、保健の授業に積極的にとりくむ方からいわせれば、「困難さをかかえている子ほど、保健の授業で変わる」といいきっているのだから。

 

困難さをかかえているがゆえに健康に関連する社会問題を鋭く指摘し、その指摘に答えるための教材が準備され、ますます教材に対する探究心が高まってくる。

 

生活と密着した学びが、子どもたちの学びの主体性を回復させていくことになるのが保健の授業。

 

生徒指導に生きるかどうかの問題は、保健の授業で教科内容や対話のある学びがしっかりと準備されているか、質の問題ということなのかも。

 

それと、現場はますますてんてこまいな状態になっている点もみすごせない。

 

9割強が多忙をうったえ、教材研究する時間がないという声が大多数をしめることを調査結果がしめしている。http://hato-project.jp/aue/report/mt_files/p4_teacher_image_2_160512.pdf

 

単純に指導要領には準拠しないといけないぞ!という文句でおわらないような報道になればいいなとおもう。

 

※またまた足助

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60km走ってへろへろ〜

今日は地元の病院にロードバイクでむかった。

 

往復60キロ。

 

帰りは足がおもうように動かなかった。

 

たぶん自動車を意識して、速く走らないと迷惑になってしまうとおもって、オーバーペースであったのだとおもう。

 

ツールドなんちゃらに参加したいとおもっているが、こりゃ〜1度琵琶湖1周を経験してみないとレースにはでられないなと実感。

 

まずは基礎体力づくりしないとダメだなぁ。。

 

ところで、実家にかえったら母親がおもしろいDVDとったでーとゆってきたので視聴した。

 

それはオリンピックに左右された選手のストーリーであった。

 

特に目をひいたのが、小鴨由水(こかもゆみ)さんの話であった。

 

走ることがたのしいと感じていた実業団時代。走ることを自己目的としてスポーツをしていた。

 

そしてその結果として手に入れたオリンピックの出場権。

 

しかし、目標としてオリンピックをはなから想定していないこと、過度なマスコミ取材と市民の期待によるプレッシャー、などを背景として、練習に身がはいらなかった。

 

一時辞退宣言もしたのだが、中学校の恩師の「走ることをたのしめばいい、今の力で精一杯走ればいい」という言葉をうけて、出場を決意。

 

帰国後、結果がふるわなかった小鴨さんに激しいバッシング、しばらくひきこもる生活をすごされたよう。

 

現在は陸上教室などを開催して精力的に活動をされていて、ほっと安心した。

 

ここからどんな教訓がえられるのかは丹念に分析しないといえないのでやめておきます。

 

直感で感じたのは、やっぱ、たのしむことが一番なんだねぇ〜、ということ。

 

それも自己目的で、それ自体をたのしむということ。

 

ロードバイクも必死でこぐことが多いけど、自分なりのたのしみをみつけたいなぁ。

 

日常は大変なことばかりだけれど、それでも今がたのしいとおもえる日々をすごしたいなぁ〜

 

 

※足助のかたくりの花f:id:think-for-themselves:20160607231636j:plain

「日本人初の9秒台なら1億円出す」でいいのかな・・・。

田植え前の土を耕す作業は「風薫る」季節を感じさせる。でも、ちょっとくさい。でも、それがまたいい。

 

田植えがおわり、均等に並んだ苗が水面から顔をだす。

 

ときおり田んぼの水面に青い空がうつしだされ、あざやかな色合いの大地がすがすがしくおもえる。

 

そんな雨上がりの日曜日

 

ところで、6月3日の新聞でみた文字にびっくりしてしまった。

 

「陸上男子100mで注目度急上昇なのが、ジャマイカ人を父にもつケンブリッジ飛鳥だ。5月21日に自己最高を0秒11も短縮する10秒10を出した。」

 

「所属先(ドーム)の安田秀一会長からは「日本人初の9秒台なら1億円出す」と告げられた。「モチベーションが100倍くらいになった」

 

こういう記事には咄嗟に「選手をお金で露骨に買うような発言、勝利至上主義を強固にしスポーツ選手・スポーツ文化を腐敗させるよからぬ考えだ」と反応してしまったりする。

 

でもちょっとだけおもいとどまる。いつもステレオタイプ的に反応する自分にもちょっとブレーキをかけてみる。

 

この記事をみんなはどうよむのだろう。

 

「さすがふとっぱらの会長、でないと陸上界は生きていけないよ」

 

「さすがふとっぱらの会長、やっぱり国民的スターにはそれぐらいの報酬が見合ってる」

 

「あ~~まぁ1億円以上の利益がでるからそれぐらいすぐ広告費・観戦費用の増額などで簡単に取り戻せるからな。それぐらいなら余裕でだせるだろうな」

 

「お金で選手をつるなんて、どうなの?」

 

「選手のオーバートレーニングや非科学的トレーニング、ドーピング問題につながらないといいな」

 

「よし!俺も1億円プレーヤーめざしてがんばろう!」

 

「1億円って、すくないんじゃないか、日本にもたらす利益を考えたら、子どもたちに夢を与えることを考えたら、もっとだしてもいいんじゃないか?」

 

「弱肉強食の世界、彼はもし9秒代を期待されてだせなかったら、捨てられるだけなのかな」

 

「1億円でやるき100倍、もっと他の方法はなかったのか。ケンブリッジさんは悪い意味でもいい意味でも純粋なんだな・・・その純粋さをねじまげることにならないのだろうか・・・」

 

 いろいろ考えてみたが、やはりスポーツ選手のセカンドキャリアの問題を考えると、もっと違う使い道を考えて欲しいなとおもってしまう。

 

一攫千金を手に入れたとしたら、彼は陸上競技をその後も真摯に追求するのだろうか・・・。陸上競技文化の成熟にむけて社会的な活動を展開するのだろうか。

 

以前に問題になったバドミントン選手。

 

選手にすべて責任があるような日本のマスメディアの風潮であった。

 

なぜ彼らが賞金獲得をねらった海外遠征をおこなわざるをえなかったのか。

 

まだまだ選手を食物にする体制ができあがってしまっているんじゃないのかな。

 

なんておもってしまう。

 

ドームのホームページをみると、理念にスポーツを通して社会貢献することが綴られている。

 

どうか「スポーツ」の視野が商業主義・勝利至上主義のプロ「スポーツ」だけにとどまらないようにしてもらいたいなと願う。