TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

広島でかんがえる

さて、オリ・パラと同年、広島大会をむかえる。

 

広島大会をうけいれた際、私もメンバーとなっていたので、

内部の人となった。

 

今回は、大会テーマにむけて、資料提供をおこなった。

 

資料は、森さんの運動文化研究の資料をもとに、平和・民主主義と教育・体育のことを話した。

 

そこから、広島大会を平和や民主主義と集団づくりをつなぐ契機としよう、とよびかけてみた。

 

最終的には現地の人が構想する必要がある。だから、資料提供にとどまるしかないが、どうなるだろうか。

 

 

さて、そのこともあって、今回広島にいくときに、平和学習をおこなってみた。

そのことで実感したことをふりかえっておきたい。

 

似島

 似島の存在はしりあいからきいていた。この話をきいたことが、今回の平和学習につながっていったため、とても感謝したい。さて、似島は、もともと軍用地として指定され、若い兵士たちが訓練をする場所となっていたようだ。その後、海外進出した日本兵たちが、海外で病原菌をもらってきていないかを検査する検疫所となっていく。特に、日清戦争を契機にして第1検疫所が設立、その後、日露戦争を契機にして第2検疫所が設立されている。またこの時、中国に進出した際に、ドイツ人捕虜を数千人つかまえ、似島に700人程を収容する捕虜施設をつくったようだ。そして、似島が広島において重要な役割をもったのが、原爆投下後に、検査所として指定されたことである。1万人の人がおとずれたそうだ。その時、宇品にいた若い兵士たちが運営の一員として奮闘したようである。そして、広島にもどれたのは2000人程であった。その後、ドイツ人捕虜を収容していたことが、広島の生活文化に影響をあたえていく。ドイツ人兵士は、一般市民がおおく、様々な家業を生業としていた人たちであった。また、ジュネーブ条約に批准する前であるとともに、日本は外国人から新しい技術を学び、先進国へと発展していこうとしていた。そのため、捕虜の人たちから様々な生活技術を学ぶことになる。その一部であった、サッカーは、広島大学と関係をもちながら、普及していく。また、バームクーヘンも普及していったようだ。似島からは広島の生活文化に影響をあたえるものもうまれていった。

 こうして、似島は戦争から原爆被害までの歴史的経過を追体験することができる。原爆を戦争という地平でひろくとらえることをもとめてくる。同時に、島という立地条件ゆえに、戦争をめぐる様々な人々の想いが交錯した土地となった。その象徴が、「加害者と被害者がともにかかわった島」ということになる。この事実は、日本が原爆被害をうけた、「被害者」としてだけではなく、やはり戦争兵器をつくり、訓練をしてきた戦争の「加害者」であることを物語る。また、「加害者」といっても、訓練兵になることで「死を覚悟した場所」であると同時に、検疫所として海外進出からかえってきて「生を実感した場所」でもあった。さらに、戦争によって非人道的被害をあたえてしまった一方で、豊かな生活文化の交流(奪取行為だが)が生起していったことも物語っている。後者については、前提が捕虜であるため、「豊かなこと」と断定してしまうことはできないが、それにより新たな価値がうまれたこともまた、事実である。

 以上のことから、〈似島〉は原爆にとどまらない、戦争によってもたらされる特殊性をもっている島だとかんじた。〈似島〉がもつ平和や民主主義へのメッセージは、戦争や原爆をみつめてきた島であることからはっせられているのではないか。

 

原爆ドーム・資料館〉

 次の日、午前中に原爆ドーム・資料館へたちよった。午後からは広島支部で報告をする予定であったため、十分な時間がとれなかったが、ここははずせない。

 また、似島についてきいた人も、この場所をおとずれており、自分も原爆死没者慰霊碑の前にたちたいとおもっていた。

 そして、これは現地できいた話で、私もしらなかったことなのだが、原爆死没者慰霊碑をのぞくと、そこに原爆ドームがすっぽりかこわれる。ここに1つのメッセージがあるという。もともと原爆ドームを公園の中央にすえたかったが、道路や鉄道の関係、建築上の関係でできなかったようだ。そこで、公園の中央に慰霊碑をおき、そこを中心に左右対称の空間を構成している。つまり、公園の中央にある慰霊碑から原爆ドームをのぞきみることは、原爆ドームを中心にする、ということでもある。慰霊碑からみえる原爆ドームを中心に、平和や民主主義へのメッセージをかんがえていこうとする、この空間構成は見事である。

 原爆ドームや資料館を見ると、あらためて、平和や民主主義への願いが、戦没者の叫びや戦後トラウマで苦しんだ人たちの生活苦そのものであることをおもいしらされる。願いの発信元を自覚することができる。そして、そのことへの強い自覚を、やはり広島の人たちはもっている、それは外の人たちは現地にいく中でしか学べないことなのかもしれないとかんじた。

 また、原爆資料館はまだ整備中で一部のものしか閲覧できなかったが、そこであらたにしったことがある。それはアメリカを中心にした数名の学者が原爆投下時に、事前に原爆投下を知らせるべきだと委員会で提案書を提出していたこと、そして、それが議会で否決(無視?)されたことであった。この事実は耳にはしていたが、具体的な議論の様子は、はじめてしった。他にも、アメリカが、日本の戦争犯罪(毒ガス兵器の製造・使用、捕虜・民間人への非人道的行為等)を高等裁判所でさばかれることをもみけしたそうだ。反省せずにここまできてしまった部分があるのかもしれない。

 ここから、戦争というものがやはり、人の手によっておこなわれ、無残なものになっていったこと、それから、研究者の役割についてかんがえさせられた。そして、ここでも、戦争が加害者と被害者が交わる行為であることをかんじた。原爆投下は、戦争の悲惨さを強烈にうったえるが、それは「被害者」としてのみうけとってはいけないのだなとおもえた。

 

大久野島

 次の日、毒ガス兵器を製造した大久野島にいってきた。この島も、もともと軍用地化され、大砲が整備される時代と、その後、毒ガス兵器を製造する時代とにわかれる。毒ガス兵器は国際条約で禁止されていたことから、日本はこの島を地図から削除したそうだ。日本が使用した毒ガス兵器の8割はこの島で製造される。ここで製造された兵器がどのように使用されたのかはよくわからないようだ。ここで印象的だったことは、作業員は圧倒的に広島の人たちとなったことだ。広島という地の特殊性だ。この3日間の総括的な実感であったとおもうが、広島という地は、瀬戸内海に島々をもち、敵が侵入しづらく、軍用地として最適だった。呉が軍艦の製造をになったり、大久野島が毒ガス兵器製造をになったり、似島が訓練地で検疫所としての役割をになったりと、戦争とむすびついた土地であった。同時に、アメリカからは原爆の実験地として、あまり攻撃されなかった土地でもあった。そのため、遺構が数多くのこることにもなる。

 広島という地が、立地上、戦争を象徴する場となり、そこにすむ人たちをまきこんでいったこと、そのことは、自分も戦争被害の2世、3世となりうる存在であることを意味している。立地上、たまたまそこがえらばれたのだから。

 

 こうして、3日間の平和学習をひとまず、おえた。

 

①「原爆」という象徴から、「戦争」(加害者でもあり、被害者でもあること)をみつめること

②「戦争」が人々の人生(死と生と文化)を交差させる複雑さをもち、その土地ごとに特殊性をもった平和・民主主義へのメッセージがつくられること

③「戦争」が人の手によってなされたものであること(推進する声と制御する声とそれを阻止する声があったこと)

④「平和・民主主義への願い」は、死者の叫び・生存者の生活苦からなりたっていること

⑤広島がヒロシマとして世界へ普遍性をもつメッセージをつたえようとする背景には、やはり広島がもつ特殊な立地条件があったこと

 

こうした点が、今回私のまなびえたことだとおもう。

 

 平和や民主主義を(現代における)教育思想として構築する。

 

 これがいつの時代にももとめられる教育関係者にとって大切なことなのかもしれない。さて、どこまでできるか、やってみよう。

 

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「下請け論」をこえるとき?

以前、1年前か、東京支部大会に参加したときだったとおもうけれど、平石さんから「丹下の下請け論って、どういうことなのでしょうか」と質問されたことがある。

 

そのときに、あ、そうそう、自分も悩んだことある〜とこたえた。

 

運動文化を何かの手段にするのではなく、目的的にその価値を追求する中で、体育的人間形成をめざそうとした理論だったかとおもう。

 

でも、そもそも教育は、教材を手段化している、自己目的的に追求させるという手段である。

 

ここにど〜もふにおちないところがいつもあった。平石さんもそういうところにひかかっているとかんじた。

 

ただ、そこでおさえておくべきは、当時はエリートスポーツへ偏向していく時代であり、高度経済成長をむかえる中で、根性主義や欧米諸国においつけおいこせ原理がはたらいていた時代であったことだ。

 

下請けになるな、とは、①市民のためではなく、一部のエリートのための教育手段としてスポーツをあつかうことはやめよう、ということと、②運動文化の本質(喜び)を見定め、そこをこそ学ぶ中身にしていこう、運動文化の喜びを享受することで、人間的欲求がたかまっていくのだから、というメッセージであったかとおもう。

 

「手段化」することそれ自体を批判的にとらえることは、当時のスポーツ文化の未成熟さや、市民からはなれる「手段化」がはびこる当日の時代的な制約があったのではないか、と推察する。

 

今、おもうのは、本質を外さない、というメッセージの重要さをひきとりながらも、「手段化」を受容し、その上で、どのような「手段」とするのかを問うことの方が必要であるとおもう。

 

その典型的な例が、政治とスポーツだ。

これまで、政治とスポーツはかなり微妙なかたられかたをしてきたようにおもう。スポーツを手段化しない、という宣言は、スポーツの政治利用を批判する文脈でもかたられてきた。でも、オリンピックが象徴的であるように、スポーツは政治とともにあった。

 

だから、重要なのは、スポーツを平和と民主主義に寄与するものへとつくりかえていく政治をもとめていく時代認識が必要なんじゃないか。スポーツで平和と民主主義に寄与する、これも1つのスポーツをよいものにする行為なのではないだろうか。

 

かつてのスポーツ権利論にもとづく主体者像では、スポーツの行政請求権を重要な学力として位置づけてきた。まさにこの姿勢が必要なのではないか。

 

人は、スポーツそれ自体を目的的に追求する、同時に、その過程でえられる付加価値(健康、関係づくりなど)ももとめてきたはずだ。

 

走ることやプレーすることの爽快感や、ともに楽しみ競い合う世界をたのしんでいると同時に、コミュニティづくりや健康志向がその活動を支持してきたはずだ。

 

つまり、「手段論」と「目的論」は同時にあらわれるものであるとおもう。

 

私たちはスポーツを政治争いのために利用する、そういう「手段化」は批判する。一方で、スポーツを通してゆたかな社会をつくろうとするとりくみは、推奨していく。こういうスタンスがもとめられているとおもう。そこには、かなり厳しい分析力がもとめられるだろう。なんせ、これまであまりスポーツと政治についてかたってこなかったのだから。

 

実現しないでしょうが、夏大会でスポーツと政治分科会
なるものがあってもよいかもしれません。
特別講座なんかとか。

 

今、地域行政とむすびつきながら、市民スポーツが普及している。この状況をみたときに、市民と行政が手をとりながらも、よりよい市民文化を創造していく指針(鋭い分析の目)が必要となる。

 

「下請け論」をこえて、スポーツを手段として平和や民主主義を実現しようとするありかたも、視野にいれるようにしないといけないのではないか。

 

それほど、スポーツは多様な文脈で存在する事象となったのだ。スポーツで国際貢献、国際開発なんてのものある。今、現代スポーツがもとめるのは、よりよい手段化の方法(悪用されない方法)、ではないか。

 

※追記

 

・「下請け論」と「手段化」は同一視してはならないかも、とおもった。「下請け論」とは、「エリートスポーツを育てるための体育」とか「医療費削減のための体育」といった下請けを否定するものであることに力点があって、「手段化」の否定に力点がなかったのではないか、ここはもう1度、文献をみてみなければならないなぁ。

 

・ここでいいたかったのは、「手段論」を否定するあまり、スポーツと政治をきりはなして議論してきてしまったり、スポーツを通した平和や民主主義へ寄与することもスポーツをよりよいものへとつくりかえていく1つのあり方ととらえそこなってしまったりしてきたのではないか、ということだ。

 

・目的論だけでは、スポーツ・運動文化のゆたかさをとらえそこなうのではないか。そんな気がしている。

 

 

子どもの権利とスポーツの原則

これはまた、1つの進歩である。

 

先日、久保さんからユニセフが「子どもの権利とスポーツの原則」が発行されたことをきいて、しらべてみた。

 

https://www.unicef.or.jp/news/2018/0187.html

より引用

 


 ユニセフ(国連児童基金)と公益財団法人 日本ユニセフ協会赤松良子会長・東京都港区)は、『子どもの権利条約児童の権利に関する条約)』が採択された記念日「世界子どもの日」となる本日(11月20日)午後、東京都港区で、スポーツと子どもの課題に特化したユニセフとして初めての文書、『子どもの権利とスポーツの原則』(Children’s Rights in Sport Principles)を発表いたしました。

 

子どもの権利とスポーツ原則
 遊びやスポーツには、子どもの心身の成長を促す大きな力があります。世界で最も多くの国と地域が締約する『子どもの権利条約』も、国や民族、性別、障がいの有無に関わらず、すべての子どもに、遊び、レクリエーションや休息の権利を認めています。しかしながら、世界各地で、暴力的な指導や子どもの心身の発達に配慮しない過度なトレーニングなど、スポーツが子どもに負の影響を与えるような問題が生じていることも明らかになってきています。

国内外の専門家の協力を得て作成した本原則は、国際スポーツイベントの開催を控えスポーツに対する関心が高まる中、スポーツが真に子どもの健全な成長を支え子どもの権利促進に寄与する社会となるよう、スポーツ団体、指導者、企業、学校、家庭を含め、スポーツに関わるすべての関係者のための行動指針を示します。

 

子どもの権利とスポーツの原則にかんするホームページも開設されている。

結構、ちからをいれていることがわかる。

https://childinsport.jp/

 

冊子は次のリンクからみられる。

https://childinsport.jp/assets/downloads/crsp_booklet.pdf

 

また、提言されていることは次の10のもの。

 

<スポーツ団体とスポーツに関わる教育機関、スポーツ指導者に期待されること>(1〜6項目)

1.子どもの権利の尊重と推進にコミットする

2.スポーツを通じた子どものバランスのとれた成長に配慮する

3.子どもをスポーツに関係したリスクから保護する

4.子どもの健康を守る

5.子どもの権利を守るためのガバナンス体制を整備する

6.子どもに関わるおとなの理解とエンゲージメント(対話)を
推進する

 

<スポーツ団体を支援する企業・組織に期待されること>(7〜8項目)

7.スポーツ団体等への支援の意思決定において子どもの権利を組み込む

8.支援先のスポーツ団体等に対して働きかけを行う

 

<成人アスリートと組織団体に期待されること>(9項目)

9.関係者への働きかけと対話を行う

 

<子どもの保護者に期待されること>(10項目)

10.スポーツを通じた子どもの健全な成長をサポートする

 

子どもの権利条約は、これまで日本に何度も是正勧告が通達されており、それを無視してきた政府の実態がある。しかし、子どもの権利はいよいよその範囲を拡大させ、具体的な改革に着手しているようである。

 

子どもの権利とスポーツの権利がまっちしていることで、とても重要な問題提起となっているとおもう。

 

これは、どこかでとりあげなければならない、現代的な権利論のありようであろう。

 

さて、どこでとりあげるとよいのだろうか・・・・。

 

ん〜。

 

でもまずは、この内容をどこかのタイミングで検討してみよう。

 

 

 

教員の労働環境についてのパブリックコメント

文科省から「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申素案)」に関する意見募集(パブリックコメント)のページが開設された。

 

これがそのページ

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185001019&Mode=0

 

これがその答申素案

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/079/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/12/06/1411603_1.pdf

 

今日がしめきりなのだが、なんとか、答申素案をよみ、意見を作成した。

以下のものがその中身。一応、成果と課題の両面をまとめてみようとした。

一読しただけなので、あらいけれど・・・。

 

 「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申素案)」(以下、答申素案と省略する)は、文科省が現在の教員がおかれている実態にそくして、積極的に教職員の働き方改革を推進しようとする方針が、建設的でよいと考えた。特に、学校業務を3つに区別し、現実的で具体的な対応策を提起した点(p.28)、教科横断的なカリキュラムを構想することで、複数にわたる特定テーマでの実践成果を実証しなくてすむなど、新学習指導要領の改革と業務改善を、教育活動の水準を低下させることなく理念的に接続しようとしている点(pp.34-35)、現在の授業時数・業務過多の現実をうけとめた上で、「文部科学省内においては、今後学校へ新たな業務を付加するような制度改正等を行う際には、学校の業務を増やさない、又は減らすようスクラップ・アンド・ビルドを原則とし、財務課との相談を経て実施する体制を徹底」(p.29)するといった、今後継続して働き方が適正化されるための方針もうちだしている点、そして、今後、超過勤務4項目以外の自発的勤務も含んで労働時間・環境を検討することを推奨する、建設的な改善にむけた方針転換については、高く評価できると考える。教職員が労働者としてその人間性を尊重されてこそ、学校教育の成果がえられる、そのために「今できることは直ちにやる」という姿勢は、現場の教員にねざした大変心強いものである。
 ただし、以下の点については、まだ課題が残ると考え、改善を要求したい。まず、変形労働時間制についてである。現場の実態を加味すると、労働時間の構造が可視化される点はよいが、実質、現場の労働環境を改善するものとはならないと考える。現状、教職員は子どもたちが通学する学期中の残業がもっとも多く、その後、通学が限られた8月には事実上、適正化される実態となっている。そのため、「変形労働時間制」を導入することそれ自体は改善へとむかう改革とはならない。むしろ、子育て・介護世代の教職員にとっては、変形労働時間制による労働時間の延長により、家庭生活への影響がでることが危惧される。現在、子育て・介護世代が多く学校現場にいる中で、労働と生活のバランスをくずすデメリットが多くなる可能性がある。そのため、変形労働時間制は一律に導入するべきものではないし、導入される場合は個々の教師の裁量にある程度ゆだねられる必要があると考える。「答申素案」における「一年単位の変形労働時間制を導入することで、学期中の勤務が現在より長時間化し、かえって学期中一日一日の疲労が回復せずに蓄積し、教師の健康に深刻な影響を及ぼすようなことがあっては本末転倒である」という認識は、とても重要な視点であると思われ、上記の意見とともにこの視点から制度設計を再検討してもらいたい。
 次に、現状に対する緊急対応に弱さがあると考える。それは、教職調整額について、「教職員定数の改善を含む今回提言した様々な勤務時間の縮減のための施策を総合的に実施することで、学校における働き方改革を確実に実施することを優先すべきであり、今後これらの取組の成果を踏まえつつ、必要に応じ中長期的な課題として検討すべきである」(p.45)としている点にあらわれている。この一文をみると、答申素案で提言されている働き方改革が実施されれば、ただちに労働改善がなされると分析しているとみられるが、現時点で教職員の労働環境はブラックと称されるほど、悪化している。すなわち、「中長期的な課題」ではなく、「早期の課題」と把握し、現場の実態への対策を十分にとるために、教職員定数のますますの改善(増加)と、教職調整額の増額を実施するべきである。現状が改善されたことが把握されたときにはじめて、適正な基準に修正していくことが本筋である。現状、教職員は長期にわたり悪化した教育労働環境で子どもたちの学習権を保障するために奮闘してきたわけであり、そのことを加味しても、緊急対応として、まずは適正化をめざした対策を十分に実施し、適正化がなされた時に、あらためて基準を再検討していくことがもとめられる。現在の制度設計と実態にズレがある以上、ただちに十分な対応をし、その後、適正値に修正をしていく姿勢こそが、未来をゆたかにする教育行政のあるべき姿であると考える。
 以上、今回の答申素案は、学校現場の具体的な実態にねざした改革を提言していることから、現場で苦労している教職員の労働環境の改善にむかう可能性をもつ。一方、現場の実態把握にねざすならば、上記の意見等の視点を再検討し、十分な対応をしっかりととることがもとめらると考える。働き方改革は長期にわたり、今後も継続していただけることをつよく願う。教育現場で心身ともに疲弊した仲間をもうみたくはない。

 

ん〜、妹尾さんの意見をみると、たしかに、残業代がちゃんと支給されるのが一番よいなとかんじた。そのため、教職調整額の制度自体のみなおしを示唆する文言もいれていたらよかったかもなぁ。

 

妹尾さんの記事

https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20181209-00107131/

 

https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20181206-00106819/

 

あと、ガイドラインパブリックコメントも提出。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185001020&Mode=0

こちらもあわせて、今日までであった。

 

前回の指導要領のパブリックコメントでは、ほとんどの声が無視されていた印象をもつ。

 

今回はどうか。答申自体が現場によっているために、しっかりした意見の集約と答申の修正がなされることをねがう。

学校現場の労働改善を

学校における労働問題。

 

研究者を中心としたグループが創設された。

 

https://www.kyobun.co.jp/news/20181204_04/?fbclid=IwAR1wnK-SlPc7dpuwpzg0Rs3dRN5YvcHPFAEsV6DERa1NYpa_qzRLdo9Nclk

 

https://www.edulabs.info/

 

インタビューの中で広田さんがこたえている点が最近、みにせまるおもいだ。

――教育学者として、給特法や教員の長時間労働に対して行動する意義は。

教育学者が教員に対し「こんなに教育は素晴らしいから頑張れ」と追い詰めた部分があることには、個人的には責任を感じる。教育学者が関心を持ってきたのは、いかに何をどう教えるかという教育の在り方だった。しかし、教員の勤務条件や生活時間がきちんと確保できないような状況が明らかになり、次々に打ち出される改革が教員を追い詰めていることがはっきりしてきた。教室で何をどう教えるかということに教育学者は関心を持つけれど、その外側の大きな問題を解決しないと、教員がこれ以上持たなくなっているということだ。これからは教員の勤務条件に学者が発言していくことが重要になっていくだろう。

学会でもシンポジウムや課題研究など、近年教員の働き方の問題を研究で取り上げるようになっており、強い関心が寄せられている。ただ、社会的なアクションを起こすという議論はあまり広がっていない。学会は学術研究団体なので、どこまで社会的に行動すべきかについては議論がある。

 

周囲の教員はくたくたで、夜の11時をすぎないと電話できない人などもいる。

教員も一労働者として、環境整備がされることをねがう。

 

同時に、石川さんが7割が学校、3割が社会で活動をせよ、という主張にならい、

自分なりに活動をしてみようとおもう。

 

自分もいくつか痛い経験がある。

無理にひっぱり、おいたてるだけでは、もう説得力がなくなってしまった。

 

からだのワークショップ(メモ)

昨日は、矢田部さんのワークショップであった。

 

本をたくさんよんだこともあって、なるほど、よくわかった。

 

そして、実際にからだをうごかしながら、

たくさんの身体技法のポイントを理解することができた。

 

今回、これらまなんだことをどう学校教育でいかすのか、ふりかえりながらかんがえてみたい。

 

1.姿勢学習の際は「正しい姿勢」を強調しすぎない。

 

 矢田部さんの問題意識として、「正しい姿勢」を提示しようとすると、大人の権威がたかまり、その姿勢がとれない子どもは劣等感をかかえるし、一方的な学習になってしまい、それは軍事教育のながれに同化する可能性もあることを危惧されていた。

 

 だから、初期の頃は、そこまで「正しい姿勢」をおしつけないように、指導する配慮が必要になりそうだ。

 

2.初期の指導内容

 

 人間の背骨は湾曲しているのが自然である。しかしこれを「背筋をのばして!」と「ただしい姿勢」を指導してしまうと、湾曲を無理にのばそうとするため、鳩尾(みぞおち)や肩(背筋群)が緊張してくる。

 

 この姿勢を継続して保持することは困難であり、「ただしい姿勢」はとれないことになる。また、からだにとっても自然ではない。

 

 一方で、自然な姿勢というのは、骨盤をたて、鳩尾をリラックスさせて、自分のからだの前にひろい空間ができる姿勢となる。特に、骨盤をたてることは筋肉の柔軟性をあげたり、練習をしたりしないとすぐには習得できない。

 

 そのため、姿勢学習の入り口としては、①椅子のうしろまですわり(自然と背もたれに骨盤があたり、骨盤がたつ)、②頭とおへそを一直線にする、③耳と肩を一直線にする(肩甲骨をよせて肩をひらく)、という3点にしぼり、一時的にその姿勢がとれるように指導すればよい。

 

 ※あごがあがってしまう子には、とおくの地面に視線をおくとよいと指導するとよいそうだ。

 

 ②③が有効なのは、背骨をのばす意識をすることなく、頭と肩の意識をすることで、自然とからだが湾曲をたもちながらまっすぐなポジションとなるためである。

 

 なるほど、これは勉強になりました。

 

3.坐の学習

 

 先行実践では、あるく、たつ、といった学習がみられる。矢田部さんの場合は、坐のゆたかな学習の構想をえがいてくれる。

 

 歴史的に創造された多様な坐の形式を学習しながら、多様な場面に対応できる坐の身体技法を学習していく。

 

 矢田部さんは坐の身体技法を分類されているので、それを参考にしながら、1つ1つの座法を試行し、そこに歴史的な学習やからだの動作方法の学習をしていくのである。

 

 今回のワークショップを企画した浅川さんは坐の巻物を作成し、学習する構想案をおもいついたようだ。

 

 今回のワークでなるほど、そういう比較(理解)の仕方があるかとおもったのは、端坐(正座)をして、その後、スネの部分をおしてマッサージをし、足首の関節の柔軟性をたかめてふたたび端坐をすると、足がべちゃっと地面にくっついて、座布団の役割のようになることであった。矢田部さんは足が座布団がわりになること、また、かたい地面でもからだのゆるめかたを工夫すればどこでも熟睡できること、をおしえてくれた。これは「からだの学習(睡眠につながる)」として拡大していく可能性をもつ発言だとおもった。

 

 また、多様な坐法で、骨盤をうごかしてみると、端坐ではよく骨盤がうごくことがわかる。それだけ可動域をえられるということは、それだけ骨盤への負担がすくないということである。一方で、足首への負担がおおきい。でも上述のように柔軟性をあげれば、問題なくなる。

 

 また、坐の姿勢からたつ行為をしたときに、端坐や立膝だとすっとたてる。こうして次の動作に移行しやすくなる。

 

あしをのばしてすわる方法は私には困難であった。でも骨盤周囲の筋群の柔軟性をあげるとそれができるのであろう。

 

なにかができるようになる、そういう学習のありようもひらかれている。

 

ペアと観察学習をしたり、柔軟性をあげるためにペアとストレッチやワークを実施することもできるだろう。ペアの人はあなたのからだをみつめる人として、いろんなワークを実施して、たがいのかかわりをふやしていくこともできそうだ。

 

 今度矢田部さんのところに訪問して、からだ(坐)の学習を典型化してみよう。

 

それが実現すると、おもしろいだろうな。

 

あ、あと、矢田部さんが作成した椅子、おもしろかったです。

 

実際に2時間矢田部さんの椅子にすわっていたが、疲労がすくなかったです。

研究会の写真を撮影すると、みんな姿勢がよくなっており、

これはこれは、すばらしい椅子だなぁとおもいました。

 

今度、購入したいとおもいます。

 

みなさんもぜひ、ためしてみてください。

 

灰谷さん

兎の眼をみた。

 

これまでなんども教員になるなら灰谷さんの小説をよめ、と学部生のころにいわれてたっけ。

 

だれにいわれていたかは、、、わすれた。

 

でも、どこかにひっかかっていた。

 

それで、ようやくよんでみた。

 

なるほど、これはたしかに、よんでもらいたい内容だ。

 

1)一見、こまった子が、実はクラスや教師に人間味をおしえてくれるタカラの子なんだ、というメッセージ

 

2)子ども理解にもとづき、子どもによりそうことに信念をもつ教師の姿勢、というメッセージ

 

3)上述の信念をもつがゆえに、地域と一緒になって団結し、子どもたちの生活をまもるための闘争をする、地域性や社会運動へのメッセージ

 

こうしたメッセージがふんだんにしめされている。淳一の話などは涙なしにはよめなかった。

 

教育とは子どもの成長・発達をどこまでもしんじることなんだなぁと、かんじさせる小説だ。

 

一応、ちょっとおしいなとおもうところは、教科指導との関連があるとよかったなぁという点。でも若手教員が主人公だから、そこはおさえてあるのかな。他の教員でもよいからそういう場面があるとよかったなぁ。この小説には人間性でつらぬかれている。

 

一読して、よくぞこれをすすめてくれたなとおもった。

特に、行政と闘争する場面、行政のスタンスも批判的にかかれていて、これはするどいとおもった。

 

教員をめざすなら灰谷さんの小説をよもう、とすすめられた意味がわかった。

 

ちなみに、当時の時代背景をふまえて、リアルな世界がえがかれているところもいい。戦後の貧困、社会運動の仕方、夫(高度経済成長下の社会)と主人公(人間性)の乖離(「生き方がちがう」)、様々な時代背景がみえ、歴史的な史実をよんでいるような感覚にもなった。

 

次は太陽のこでもよんでみようかな。

 

たのしみ。