TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

村上さんの小説

いまになって、いろんな自分の幅をひろげるこころみをはじめている。

 

経済的な安定(雇用形態は不安定)、精神的余裕(7年かけた大きなノルマからの解放)などがあって、いよいよ、というか、よ〜やく、あたりまえの生活ができてきた、ということ。

 

これまでどれだけの時間をついやしてきたのかがよくわかる。

 

さて、今回は田崎つくるが主人公の村上さんの小説をよんでみた。

 

1日100ページをめどに、4日でよんだ。

 

じっくり、あじわった。

 

う〜ん、さすがでした。おどろきと発見ばかりでした。

 

1つめ、

 

結論がないけれど、その過程で様々な田崎つくるのことがかかれているから、それでよいとおもった。

 

仕事柄結論がしりたくなってしまうのだが、そのプロセスの密度がこかったら、それでいい世界があるんだな、そういう地平をこの小説はひらかせてくれた。

 

その先の出来事は、田崎自身しかしらない、ということ。でも、その田崎がこの先どう生きていくのかは、物語の過程で十分にしめされている。

 

おわりはだれにもきめられない、連続的な生のありようをみせつけられた。

 

まなびの過程をみるときにも、こういう視点って大事かも。

 

授業の中で生起する様々な葛藤・矛盾、喜び・感動は、どこかで子どもたちの明日をつくりだしていく材料になっている。

 

2つめ、自分の中の歴史とむきあうこと。

 

これは、結構しんどい。

 

だが、小説では、まず、自分の中の歴史が、今の生き方に反映されている事実に、あらためてきづかされるところからはじまる。

 

どこかで過去の事実をみんなせおっていきているのだ。

 

そして、そのこととむきあわなければ、他者と心をかよわすことはできないと指摘をされ、巡礼の旅にでる。

 

そこまでの葛藤やとまどい、巡礼中の逡巡など、過去の事実とむきあう過程の、なんと複雑なことか。そう簡単ではない。そういうことを村上さんはよくえがいている。

 

さらに、私のよみ、だが、田崎つくるは、巡礼の旅をおえてなお、自分の問題を解決していないようにおもえた。

 

過去とむきあうことは、その覚悟とともに、時間が必要なのかもしれない。むきあいかたもそのときの状況によって変化もするだろう。

 

このくだりで、感動したのは、傷と傷で、人はつながっている、という示唆だ。なるほど、そういう面は往々にしてある。人がつながるとは、よわいものが、ささえあい、でも、だからこそ、安心をもって自分をそだてていける環境をつくることなのかもしれない。

 

3つめ、現代社会がみえる。

 

今回は、現代社会を生きる人をえがいた、ということもあり、多分に共感できる世界観であった。だから、まだもやもやしている。自分もまた、田崎つくるなのだなぁとじわりとかんじる。

 

どこかすっとこの小説をふりきることができない。

 

このもやもや、どうしようかな。

 

でも、整理するまえに、次の小説にむかおう。

 

やっぱり、ところどころの表現がおもしろい。

 

小説、これまで宮部さんのものとか、何冊かよんでいたけれど、あらためて、表現がおもしろい。それ自体がたのしい世界がある。

 

今日は本屋にいくぞ〜、どんなであいがあるだろう。

f:id:think-for-themselves:20180911092237j:plain

長野でたべた岩魚♪ 左上にちらっとみえる、焼酎の蕎麦湯わりがうまイ!

 

東京の企画展

昨日は、東京駅で開催されているいわさきちひろ展にいってきた。

 

子どもと平和をテーマに絵をかいてきたときいた。

 

なるほど、3冊の本がその象徴となっているようだ。

 

なにかの機会でよんでみたい。

 

さて、企画展、よかったです。

 

自分の解釈ですが、いわさきちひろの子ども絵は、子どもの内面的、外面的なあたたかさ、やわらかさ、するどさ、あどけなさを、とってもゆたかなに表現しているとおもった。子どもの目線にたってかかれた「トラックをみる子」、おかあさんにだかれてやさしく安心した表情をみせる子、大きな自然(海)にむかってはしりだす子、戦火で複雑な闇をかかえてしまった子、絵の中に子どものゆたかさをとじこめるのがとても上手だった。

 

そして、おどろいたのは、その絵がうまれる背景には2つの要因があったということ。

 

 

1つは、いわさきちひろが「平和と子ども」をテーマとする背景だ。

 

大正自由教育運動の影響をうけ、

女学校でもテストや成績もない中で生活をした。

 

家もモダン風で、時代をよんだ生活をしている。

 

こうした中で、社会運動を意識するようになり、

新聞記者となる。そこで戦争孤児の記事をかいていた。

 

このときに、子どもを通して社会をみつめる視線を、いわさきちひろは獲得したのだとおもう。

 

一番よわい立場に戦争の悲惨さはあらわれる。その状況を、ゆたかな感性でもって理解し、闇をかかえる子、そんな中でもあかるく元気にすごそうとする子、子どものもつゆたかさをまのあたりにした経験が、えがかれた子どもの風景とつながっているとかんじた。

 

もう1つは、芸術運動に参加していたことである。

 

いわさきちひろはいくつかの師匠をもち、また、奮闘する同期の仲間をもった。そこで腕をみがき、技をみがく。このとき、いくつかの日本で生起した芸術運動に参加している。

 

墨や線をあつかった技法、文字に従属するのではなく、絵が語るという思想。

 

いわさきちひろの絵の表現力が、社会的な芸術運動の中で、文化を追求する過程でうまれてきたことに、興味をもった。

 

それと、日本でも芸術運動ってあったんだ、と素朴な発見もあった。

 

いわさきちひろの絵を、重層的にみられるようになった。

 

時代をいきぬいた人の絵は、とてもあじわいぶかいとおもう。

 

では、平和と子どもを、どういう技法で表現しようとしたのか。

 

どこかの機会で、いわさきちひろが、どんな一生をかけてどんな表現を

追求していったのか。その質を理解してみたいとおもった。

 

 

f:id:think-for-themselves:20180910220948j:plain

淡路でたべた、ハモたち。美味〜♪ 

 

体育科の見方・考え方(メモ)

体育科の見方・考え方について、批判的にかんがえてみたものを報告したので、一部、メモとしてはりつけておきたい。

 

・「体育科の見方・考え方」の課題

(1)個人の感情や能力への限定化

 「体育科の見方・考え方」においては、社会とのつながりを強調しつつも、「豊かなスポーツライフ」を限定的に把握するような、形式的な授業が展開される可能性がある。

 まず、「体育科の見方・考え方」においては、「楽しさ・喜び・体力の向上」という主体の感情や能力の視点に、運動やスポーツの「価値や特性」が限定されているように解釈できる。これでは、運動やスポーツの社会的文化的な価値や特性が軽視されてしまう。さらに、「見方」の視点が限定されるならば、「考え方」に提示された運動やスポーツの多様な側面との「関連づけ」においても、「楽しさ・喜び・体力の向上」と関係する範囲内におさまることになる。特に「楽しさ・喜び・体力の向上」とは、運動やスポーツを「する」側面を中心とするものであり、「活用・探究」の学習においても、「する」側面のみを対象とした学習になりやすくなる。たとえば、個人の能力や適性を考慮して、特定の特性をもつスポーツを選択し、生涯にわたるスポーツライフを設計する、といったように、スポーツの特性と自己の生活とを「関連づけ」て考える授業として、形式化される可能性がある。

 

(2)能力別学習の推進への危惧

 そして、「考え方」では「自己の適性等に応じて」という記述により、能力別学習が推奨されるとともに、「する・みる・支える・知る」についての多様な解釈が可能になってしまう。たとえば、能力別と解釈されることで、運動やスポーツの多様な関係性の理解をすべての学習者にどこまで保障するのかが曖昧となる。すべての学習者が選択主体となれるための学習が保障されるべきだが、運動やスポーツを「する」能力が低い学習者は「みる・支える」役割になるなど、分相応の役割論になりかねない。こうした点を危惧するのは、体育科の学習指導要領解説においては、「主体的・対話的で深い学び」が強調されながらも、なお能力別学習が推奨されているからである。学習方法としての能力別学習と目標とされる「見方・考え方」の記述が合致することで、能力別指導が蔓延していくことが危惧される。

 

(3)スポーツへの批判的な視点の欠如

 さらに、「考え方」における運動やスポーツとの多様な関係については、スポーツの肯定的な側面のみに着目していることも指摘できる。「みる・支える・知る」を直接的に学習する体育理論では、スポーツの意義や価値を肯定的な側面に限定してしまっている。こうした傾向は、スポーツ庁が策定するスポーツ基本計画や、オリンピック・パラリンピック教育においても同様の傾向がみられ、批判的な側面が軽視されている。

 そのため、「見方・考え方」に迫る学習としては、既存の状況や個人の範囲に限定した学習となり、スポーツの矛盾や問題を軽視した現状肯定的・現状適応的なスポーツ観の育成がめざされることになる。すなわち、「体育科の見方・考え方」は「スポーツの消費者」としての資質・能力の育成にとどまっており、「スポーツの創造者」(友添,2011)としての資質・能力を育成する視点が欠如しているのである。

 

f:id:think-for-themselves:20180908230451j:plain

わんぱーくのハクビシン、あつさにぐったりでした(笑)

「時間稼ぎ」の話

いよいよ明日から体育の大きな研究大会(滋賀大会)が始まります。

 

まだまよっている方はぜひご参加を。

 

http://taiiku-doshikai.org/wordpress/wp-content/uploads/2018/05/2018_shiga.pdf

 

さて、その滋賀大会で、学生の交通費を捻出するために、「World Cupの時間稼ぎの話」のまとめを冊子にしました。

 

その一部で、私の見解をちょろっとしめしたので、ここに転載します。

 

教室でする体育で教材にしてほしいなぁとおもいます。

一応、(1)から(3)の見出しが発問にもつながるかなぁというものです。

でも、この教材で何を教えるのかは十分に考えていません。

 

 

2018ワールドカップ「時間稼ぎ」問題がなげかけるもの。

(1)試合へ敗北しても決勝トーナメントに進出できればよいのか

 賛成する主な意見としては、決勝進出のための戦略であって、試合放棄ではなく、勝利をめざした決断であった、また、他試合の結果も最後まで予測がつかず、ある種の賭け(勝負)にでたというものがある。他にも、ルールに遵守した中でのプレーであり、否定できないという主張がある。これに対して、否定する立場からは、FIFAが策定する“Code of Conduct for Football[1]フットボールの行動規範)”の第1規範「play to win」に提起されている「最後まで勝利をめざしてプレーすること」に違反するものであると主張する。特に今回は、決勝トーナメントに進出するために、試合を敗北してもよいという判断がなされており、目の前の試合で最高のパフォーマンスを発揮する努力をしあわなかったことから違反に該当するだろう。もちろん、日本を攻めきらなかったポーランドも同様であろう。試合を放棄する行為という意味では、長島一茂が主張する野球の敬遠とは異なる。問題となるのは、「ルールの範囲内」であるから、「試合に敗北」をしてでも、「パフォーマンスを発揮しあわず」、「決勝トーナメントの進出」をめざした、勝利至上主義を容認するかどうかである。

 

(2)スポーツにおける「フェア」とは何か

 今回の問題が発生した要因として、「フェアプレーポイント」の導入がある。ルールに遵守した行為だとするのは、「時間稼ぎ」が「フェアプレーポイント」に違反しないためである。そのため、ネット上でも意見があがっているように「フェア」とは何かを規定しなおす必要がある。「倒れる演技がうまい国がつよいなんてフェアではない」といった声に示唆されるように、マリーシア[2]の存在もふくめ、何をもって互いを尊重し、対等な関係を保障しようとするのか、このことは教室でも相当な議論になろう。スポーツの「フェア」とは何のことだと考えるのか。

 さらにいえば、フェアプレーポイント自体の是非が問われるべきである。私はこのフェアプレーポイントの導入に反対である。ペナルティの数が順位にまで影響するとなると、選手たちのサッカープレイヤーとしての主体性(美学)を奪いかねない。イギリスで発生したフットボールは民主主義の精神にたち自己統治する主体をもとめた(中村敏雄『スポーツの風土』)。サッカーの複雑性はプレイヤーの意志や精神を尊重する中で保持されてきたと考える。危険プレーや背徳的な行為は現状のように試合へのペナルティで十分であろう。

 

(3)あなたが西野監督だったら、どのように決断するか。

 詳細には分析していないが、今回の日本の報道や議論をきくと、苦渋の決断を迫られた西野監督の判断を肯定する内容が多いように思う。日本代表で決勝トーナメント進出がかかる試合で、残り時間が限られている。この時に様々なことを想定し、苦渋の決断をした。西野監督も選手も今回の決断が正しいと晴れやかな表情ではない。そのため、あの複雑な場面での判断に共感し、「西野監督の判断は間違ってない!」と肯定する意見が多くなったと考える。西野監督のあの場面に子どもたちを立たせて考えていくのもおもしろいかもしれない。

 西野監督コメント「あの形が本意と思って戦っている選手もいたし、そうでない選手もいたと思う。どっちかに振れた戦術を与えなければいけなかった。勝てばいい、結果がいいだけでももちろんないと思う」(朝日新聞2018/7/6)

 

(4)最後に、みなさんはどのように考えるのか。

 大学生80名に質問をしたところ、「時間稼ぎ」問題を8割の学生が肯定した。「私の意見」でも肯定的な意見が多い。ここには固定的なルール観や現状適応的な思考の存在がうかがわれる。「現実のスポーツは勝利至上主義なのだからこれでよい」、「ルールに遵守したのだから何をしてもよい」という意見をきくと、スポーツを肯定的に「みる」だけではなく、よりよいものへと「つくりかえる」という視点が、今後もなお強調されていかなければならないと感じる。また、西野監督の苦渋の判断に共感することで、無批判に事態を受容することをどのように考えたらよいか。ここに日本の独自性は関連しているのだろうか。スポーツが人間にとってよいものになるためには、勝利至上主義にむかう今回の問題が肯定されてはいけないと思うのだが、みなさんはどのように考えるか。教室でする体育としても1つの教材となりうる出来事であると思う。

 

[1] Code of Conduct for Footballhttps://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2002/m=4/news=code-conduct-for-football-81746.html

1.Play to Win(全文)

 Winning is the object of playing any game. Never set out to lose. If you do not play to win, you are cheating your opponents, deceiving those who are watching, and also fooling yourself. Never give up against stronger opponents but never relent against weaker ones. It is an insult to any opponent to play at less than full strength. Play to win, until the final whistle.

[2] マリーシアポルトガル語: malicia)とは、ポルトガル語で「ずる賢さ」を意味するブラジル発祥の言葉である。 サッカーの試合時におけるさまざまな駆け引きを指す言葉でもあるが、国によってその解釈は異なっている。 イタリア語では「マリッツィア」 (Malizia) と呼ばれる。Wikipedia参照。

 

 

f:id:think-for-themselves:20180802185900j:plain

写真は小屋浦の被災地。家主さんの素敵な写真が撮影できたので

プリントしてプレゼントしたら、かわりに木刀をもらいました(笑)

 

中村の著書をよんで

スポーツの比較文化学をよんでいる。

 

それで、この本をよむと中村のスポーツへの発想がよくみえてくるなと、勉強になってくる。

 

おもしろいなとおもったのは、中村が日本の運動文化の中に近代を克服するような思想がふくまれていないか、という視点をもっていることだ。

 

近代スポーツの「素直な受容」がおおい日本では、近代化する過程で、保存会に運動文化をとじこめ、発展させてきた。

 

※ちなみに、ソフトボールソフトテニスなどは「素直でない受容」に該当するのではないか、ということや、精神的自由の境地が戦時下で鍛錬主義へと変容していき、野球を代表として普及していった様相も「素直でない受容」に該当するのではないか、という疑問はある。もちろん、アメフトのように明確に別物へと変革したわけではない、という点からすると、納得はできる。だが、アメリカでもきっとラグビーはやられているはずで、「素直でない受容」と「素直な受容」は一応併存関係にあり、程度問題なのかな?ともおもった。

 

近代化を回避するその姿勢にあらわれているように、近代を克服する思想が何かあるのではないか、とみているのだ。

 

中村がなぜ日本の文化的独自性にむかったのか、その一端がみえてすこしすっきりした。

 

また、比較文化学へのつよいおもいとして、自国と他国の文化を理解しあうことができれば、スポーツによる、スポーツの平和が前進するとかんがえているようだ。

 

今回の要領も「スポーツをとおした共生社会の実現」を目標にしているが、

であるならば、文化としてのスポーツという見方に依拠し、中村が主張

するように、イギリススポーツ、アメリカスポーツ、日本の運動文化、

といったように、教材の解釈をかえ、指導内容を文化的な特性もふくむ

ものとして位置づけていくことが必要になるだろう。

ただ「みんなちがって、みんないい」ではなく、その上に、

相手を理解した上で、承認しあう関係をつくることがめざされていくべきだ。

 

その方が現代にあっている。

 

それと、やってみたいなとおもうことは、中村論から出発して、その後、現代スポーツの分析をすることだ。なんとなくだが、ゆるスポーツは勝敗を不確定にすることで、弱者を大切にし、みんながスポーツをたのしめる空間を創造しようとしている。そしてそのことは、中村がスポーツの風土で分析するように、政治意識を排除して精神的自由の境地をきわめ、「勝敗(敗者)の美学」をみいだしていった日本の風土との関係があるようにおもわれる。「近代」を批判する視点をもつ点においても、類似するようにおもう。同時に、現在、地域行政と連携して産業的に展開される多様な地域スポーツについても、何かつながるものがあるかもしれない。こうした現代日本のスポーツ展開を分析する中で、まさに日本のスポーツ風土(文化的独自性)がみえてくる、かもしれない。

 

とはいえ、それを考察する力量があるか、、。うーん、むずかしいなぁ。

 

 

さてさて、スポーツの比較文化学の著書には、中村の文化の伝播・普及をめぐる問題意識が順をおってわかるように、論考が配置されている。良書だなとおもう。

 

編者たちの力量によるものだろう。

 

f:id:think-for-themselves:20180711142514j:plain

新宿でみつけた、スペインバルと高知の混交料理だそうな。

うーん、残念ながらこれを分析するほどの力はない。

実習のふりかえり

今日は教育実習のふりかえりがあった。

 

ディスカッションをききながら、

 

いろんな経験をしているんだなぁ、

学校ごとの差異を交流することが、

いろんな学校があることを理解する

ことにもつながっているんだなぁ、

とかんじたりしていた。

 

ふりかえりの中身としては、

 

子どものこと

 発達、関係づくり、などなど

 

授業のこと

 発問、応答、子どもの反応、教材研究の仕方、事前準備の仕方、指導案、もろもろ

 

学級づくりのこと

 全日経営、生活指導、トラブル対応、行事などなど

 

学校の同僚性

 教師集団の体制、コミュニケーション、相互補助など、

 

そして、労働問題についても話題があがった。

 

子どもたちがかえった後にまた別の仕事をしているみたい、

ということで、夜おそくまで学校にのこり仕事をしなければ

ならない裁量性の労働形態への疑問がわいたようだ。

 

と、ここまでいろいろききながら、

 

「ふりかえり」では何をねらっているのだろうか、何を「ふりかえる」とよいのだろうか、このあたりがわかんないなぁとかんじた。

 

ただ「ふりかえる」、それもたしかに自分の経験から意味をたちあげる上では大切なことだとおもうし、自分の経験をまとめる意味でも大切なことだとおもう。

 

しかし、講義としてふりかえりをさせるとなると、そこにはどんな意図があるのか、ここはかんがえどころだなとおもった。

 

個人的にはやはり、教育職のあらたな魅力と価値、教育職の現実的な課題とその対策、すぐれた教育実践の共有、私のつまづきの克服方法(何をどうこれから改善していくか)、などに集約されるとよいのではないかとおもった。あと、実習であらたな自分にであった、自己理解がどうふかまったか、というのも個人的にはきいてみたいことだ。

 

ひとまず自分の経験の意味をまとめると同時に、何か経験を1つの束にまとめるような時間も設定していけたらなとおもう。

 

でも、これを会議で発言すると、、仕事がふえるしなぁ。。

 

余裕のあるときに雑談からはじめよう。

 

f:id:think-for-themselves:20180709184930j:plain

新宿の居酒屋、吟・・・名前をわすれた。とろろ飯に牛タンに本マグロにキンメのだしを使用した味噌汁にきゅうり。うまかった~。

粉瘤、発見

昨日は大雨によって四国・中国地方を中心に被害がでていますね。

 

被害がすくないことを願います。

 

昨日は背中をごそごそさわっていたら、ニキビかなとおもって、さわっていたら、何やら大きい。

 

白くてにおいがするものがでてきた。

 

これはなんだろうとネットでしらべると、

 

粉瘤だとか。

 

ネットってすごいね。

 

最終的に手術で切除するみたい。

 

手術といえば苦いおもいでが。やだなー。

 

一度つぶして穴をあけたから、中から老廃物が

でてくるんだけれど、しばらくしたらかさぶた

になって、でなくなった。

 

感染症になる危険性があるから中の老廃物をとらない

方がよいそうなのだが、かさぶたになるなら、

大丈夫なのか?とおもったりして、

やっぱりだしたくなる衝動にかられるという。。

 

こりゃ嵯峨みたいなものですかね。

 

もうちょっとだけだしておこうかなとか、

いろいろと欲求とのおりあいをつけようとしてみたり。

今のところ、まだ2度目のつぶしはしていません。

 

でも病院にいて医者につぶされるなら自分でつぶす方が

気持ちがよさそうだよなとか。

 

いやいやでもそれで袋がやぶれて炎症したら手術が

痛いよ~。それは嫌だなとか。

 

あれこれ考えてたぶん、何もさわらないで、

 

月曜日に病院にいこう。

 

粉瘤は生活習慣ではなく、体質ということなので、

またいつかでてくるのかなぁ。

 

さて、今日はドル平の指導です。