TAMAKOSIの日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

教員の多忙化②(メモ)

 

働き方改革に注目とする記事がでた。

 

なんでも、中教審の学校における働き方改革特別部会から8月29日に、「学校における働き方改革に係る緊急提言」が出されたそうだ。

 

 

3つの緊急提言は、次のとおり。

 

1.校長及び教育委員会は学校において「勤務時間」を意識した働き方を進めること

 

2.全ての教育関係者が学校・教職員の業務改善の取組を強く推進していくこと

 

3.国として持続可能な勤務環境整備のための支援を充実させること

 

まさに、緊急。

 

教員の方の多忙さは想像以上です。

 

https://www.kyobun.co.jp/kyosai/k20171019_04/

 

※1日の流れのPDFもある。

行事は組織・集団の自治が中心でいい?

 

すっきりしないけれど、メモ

 

体育、行事、部活

 

これらを関連させるテーマは、3つの自治内容(練習・試合、組織・集団、場・環境)として提起されている。

 

で、こうした自治を重視するのであれば、

 

学校行事は、集団的な連帯感を涵養することが要領で明記されている。

 

したがって、組織・集団にかんする自治が中心になるのか?と一瞬考えた。

 

しかし、そうではないのかもしれない。と、ふみとどまる。

 

集団性に特質はたしかにある、あるけれども、特別活動の目標をかんがみると、組織・集団の自治内容だけではないような気がする。

 

組織的な体制づくりの水準

自治的な運営の水準

休み時間の自主練習

 

ここの中に、練習・試合や場・環境の内容もふくまれていくはずだ。

 

つまり、要領になぞらえると、「組織・集団の自治」(集団性の特質)が強調されてしまいかねない。「3つの自治」をおしだす行事のあり方をかんがえてみてもいいかもしれない。

 

学習のサイクルと認識の系列化

 

生涯スポーツにむけて、自分たちで運動活動を組織することができる主体をそだてる。

 

と、かんがえた場合、自分たちで運動学習を展開できるための思考の枠組みを獲得させていく必要がある。

 

たとえば、出原さんは「つまづき→課題→発見→習熟」過程を学習の対象にすることを提起した。つまり、学習活動の対象化(中村)によって獲得される思考の枠組みを提起した。

 

もしこれを系列化させるなら、

 

つまづきの実態→運動の課題の発見→課題解決の方法の発見→習熟→新たなつまづきの実態→

 

となるだろう。

 

これを簡略化すると、

 

「①運動の実態の把握→②運動の課題や方法の発見→③習熟」→「①→・・・」→

 

と段階づけていくことができそう。子どもたちに思考の枠組みとして学習させるのは、この形式(系列)でよいのかどうか、ここの検討がまず必要になりそう。

 

ちなみに、授業は、教師の指導(指示・発問)によって展開される。

 

だから、

 

①学習課題の提示→②運動の実態の把握→③運動の課題や方法の発見→④習熟→①か②へ→③→④→①か②へ

 

という系列になるのだろうか。

 

また、授業の学習サイクルとして、認識の系列化は、1時間ごとでめまぐるしく回転する場合もあるし、単元レベルで段階をふんで回転する場合もある。

 

出原田植え走などは、単元レベルで、実態(足跡)、課題(スピード曲線)、方法(腕振り)が規定されるようになる。

 

授業として構成する認識の系列化と、子どもたちに獲得させたい思考の枠組みとしての認識の系列は区別しなければならないだろう。

 

さて、具体的な授業実践から、考えていく段階かな。

体育嫌い(メモ)

 

体育のうらみつらみ川柳

 

ちょっと前に少しだけ流行したものだ。

 

体育嫌いの話に活用できるかもしれない。

 

https://twitter.com/hashtag/%E4%BD%93%E8%82%B2%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%81%A8%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%BF%E5%B7%9D%E6%9F%B3?src=hash&lang=ja

 

ただし、まだ久保さんの本で紹介されている、ちびまるこちゃんの事例の方がインパクトが強いかな。

 

あわせてつかおう。

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教員の多忙化(メモ)

内田さんの記事

 

これはすごくよくまとめられているので、メモ。

 

内田さん、すごいなぁ。

 

ハトプロジェクトの資料もこういうふうに活用すればいいのか、

と参考になった。

 

https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20171008-00076667/

いい動画だなぁ〜 (「山賊」に出会い開いた登山道)

うちにはテレビがないので、ネットでニュース動画を視聴している。

 

で、みつけたのが、

 

「山賊」に出会い開いた登山道 北アルプス伊藤新道

https://www.youtube.com/watch?v=DiEB8zCfiFE

 

これ、すごくいい動画になっている。

 

道をひらいた先代をほこりにおもいながら、自分の道をさがす伊藤圭さんの語りが、山小屋にすむ人たちの魅力とともにつたえられている動画だ。

 

おもわずなんどもみてしまっている。

 

こういう自分の道をきめていきた・る人たちの姿は、みててきもちがよいですね。

 

歴史を、人のいとなみとして、しっかりととらえる。これもまたいとなみ論の1つかも。

教授ー学習についての表現は、いとなみがみえる表現がいいのかも

11月に評価についての学習会を開催する。

 

それで、どんな学習の内容にするのかをかんがえている。

 

で、1つは、評価のおとし穴を契機にして、「評価」概念のありようをさぐるのがよいのかも。

 

村越(1982)さんは、評価のおとし穴が次の点にあらわれると指摘している。

 

   ①序列主義的評価観

   ②固定的能力評価観

   ③学力偏重評価観

 

①は学習の到達度を評価しようとするあまり、序列化させてしまう評価のみかた。

②は学習の到達度を評価する際に、評価をすることが目的化して、子どもの能力を固定的にみてしまう評価のみかた。

③は何ができるようになったのか、という学力形成の観点だけしか評価しないために、子どもたちの内面の世界の変容がみれなくなってしまう評価のみかた。

 

こうした評価のおとし穴を批判的にみて、そうではなくて、子どもの発達を願い、可能性をひきだす(子どもを励ます)評価になるように、評価のみかたを変容させよう、と提起していくことができそう。

 

それと、「評価」を到達度評価をイメージするだけではなく、概念の拡張をねらってみる。

 

たとえば、体育の場合、「評価」するといっても、次のような活動場面がありそう。

 

 ・「評価」する=子どもの運動の実態、課題、課題解決の方法を分析する

 ・「評価」する=教師の指導に対しての、子どもの反応(結果)を分析する

 ・「評価」する=子どもの学習活動を励ます(成果を承認・賞賛する)

 ・「評価」する=子どもの学習の到達点を確定する。

 

 だから、確かに成績をつけるときの「到達度の評価」という観点がありつつも、基本的には、続(1973)さんのいう「目標追求活動」に対して「調整活動のためのフィードバック情報を提供する」ものだ、という観点を大切にしていきたい。

 

つまり、評価は、子どもの発達を願って、次にどのような働きかけをすればよいのかを考えるためのもの、というみかたに。

 

 そんな展開がよいのではないか。

 

そして、ここでおもったのは、続(1973)の提起を活用して、私たちは「評価」は「フィードバック情報をえるんだ」と考えるのもいいけれど、

 

「評価とは、教師が子どもの発達を願って、次の働きかけを考えるための子どもの学習活動に対する解釈である」

 

というようにいいかえた方が、なんだかいいのではないか、と気がしている。

 

みそは、「教師が子どもの発達を願って」というところ。

 

教育が子どもの発達や学習権を保障する機会であるという前提を崩さないように表現してみた。

 

こうして「教授ー学習についての表現は、いとなみがみえる表現がいいのかも」とおもったのであーるある。

 

 

今度の学習会でも、そういう表現で、みなさんと合意がとれたらよいなぁとおもったのでした。