TAMATAMA日記

体育・スポーツや教育にかんしてかんがえたことを中心につづっていきます。研究会の情報も案内していきたいとおもいます。

からだのワークショップ(メモ)

昨日は、矢田部さんのワークショップであった。

 

本をたくさんよんだこともあって、なるほど、よくわかった。

 

そして、実際にからだをうごかしながら、

たくさんの身体技法のポイントを理解することができた。

 

今回、これらまなんだことをどう学校教育でいかすのか、ふりかえりながらかんがえてみたい。

 

1.姿勢学習の際は「正しい姿勢」を強調しすぎない。

 

 矢田部さんの問題意識として、「正しい姿勢」を提示しようとすると、大人の権威がたかまり、その姿勢がとれない子どもは劣等感をかかえるし、一方的な学習になってしまい、それは軍事教育のながれに同化する可能性もあることを危惧されていた。

 

 だから、初期の頃は、そこまで「正しい姿勢」をおしつけないように、指導する配慮が必要になりそうだ。

 

2.初期の指導内容

 

 人間の背骨は湾曲しているのが自然である。しかしこれを「背筋をのばして!」と「ただしい姿勢」を指導してしまうと、湾曲を無理にのばそうとするため、鳩尾(みぞおち)や肩(背筋群)が緊張してくる。

 

 この姿勢を継続して保持することは困難であり、「ただしい姿勢」はとれないことになる。また、からだにとっても自然ではない。

 

 一方で、自然な姿勢というのは、骨盤をたて、鳩尾をリラックスさせて、自分のからだの前にひろい空間ができる姿勢となる。特に、骨盤をたてることは筋肉の柔軟性をあげたり、練習をしたりしないとすぐには習得できない。

 

 そのため、姿勢学習の入り口としては、①椅子のうしろまですわり(自然と背もたれに骨盤があたり、骨盤がたつ)、②頭とおへそを一直線にする、③耳と肩を一直線にする(肩甲骨をよせて肩をひらく)、という3点にしぼり、一時的にその姿勢がとれるように指導すればよい。

 

 ※あごがあがってしまう子には、とおくの地面に視線をおくとよいと指導するとよいそうだ。

 

 ②③が有効なのは、背骨をのばす意識をすることなく、頭と肩の意識をすることで、自然とからだが湾曲をたもちながらまっすぐなポジションとなるためである。

 

 なるほど、これは勉強になりました。

 

3.坐の学習

 

 先行実践では、あるく、たつ、といった学習がみられる。矢田部さんの場合は、坐のゆたかな学習の構想をえがいてくれる。

 

 歴史的に創造された多様な坐の形式を学習しながら、多様な場面に対応できる坐の身体技法を学習していく。

 

 矢田部さんは坐の身体技法を分類されているので、それを参考にしながら、1つ1つの座法を試行し、そこに歴史的な学習やからだの動作方法の学習をしていくのである。

 

 今回のワークショップを企画した浅川さんは坐の巻物を作成し、学習する構想案をおもいついたようだ。

 

 今回のワークでなるほど、そういう比較(理解)の仕方があるかとおもったのは、端坐(正座)をして、その後、スネの部分をおしてマッサージをし、足首の関節の柔軟性をたかめてふたたび端坐をすると、足がべちゃっと地面にくっついて、座布団の役割のようになることであった。矢田部さんは足が座布団がわりになること、また、かたい地面でもからだのゆるめかたを工夫すればどこでも熟睡できること、をおしえてくれた。これは「からだの学習(睡眠につながる)」として拡大していく可能性をもつ発言だとおもった。

 

 また、多様な坐法で、骨盤をうごかしてみると、端坐ではよく骨盤がうごくことがわかる。それだけ可動域をえられるということは、それだけ骨盤への負担がすくないということである。一方で、足首への負担がおおきい。でも上述のように柔軟性をあげれば、問題なくなる。

 

 また、坐の姿勢からたつ行為をしたときに、端坐や立膝だとすっとたてる。こうして次の動作に移行しやすくなる。

 

あしをのばしてすわる方法は私には困難であった。でも骨盤周囲の筋群の柔軟性をあげるとそれができるのであろう。

 

なにかができるようになる、そういう学習のありようもひらかれている。

 

ペアと観察学習をしたり、柔軟性をあげるためにペアとストレッチやワークを実施することもできるだろう。ペアの人はあなたのからだをみつめる人として、いろんなワークを実施して、たがいのかかわりをふやしていくこともできそうだ。

 

 今度矢田部さんのところに訪問して、からだ(坐)の学習を典型化してみよう。

 

それが実現すると、おもしろいだろうな。

 

あ、あと、矢田部さんが作成した椅子、おもしろかったです。

 

実際に2時間矢田部さんの椅子にすわっていたが、疲労がすくなかったです。

研究会の写真を撮影すると、みんな姿勢がよくなっており、

これはこれは、すばらしい椅子だなぁとおもいました。

 

今度、購入したいとおもいます。

 

みなさんもぜひ、ためしてみてください。

 

灰谷さん

兎の眼をみた。

 

これまでなんども教員になるなら灰谷さんの小説をよめ、と学部生のころにいわれてたっけ。

 

だれにいわれていたかは、、、わすれた。

 

でも、どこかにひっかかっていた。

 

それで、ようやくよんでみた。

 

なるほど、これはたしかに、よんでもらいたい内容だ。

 

1)一見、こまった子が、実はクラスや教師に人間味をおしえてくれるタカラの子なんだ、というメッセージ

 

2)子ども理解にもとづき、子どもによりそうことに信念をもつ教師の姿勢、というメッセージ

 

3)上述の信念をもつがゆえに、地域と一緒になって団結し、子どもたちの生活をまもるための闘争をする、地域性や社会運動へのメッセージ

 

こうしたメッセージがふんだんにしめされている。淳一の話などは涙なしにはよめなかった。

 

教育とは子どもの成長・発達をどこまでもしんじることなんだなぁと、かんじさせる小説だ。

 

一応、ちょっとおしいなとおもうところは、教科指導との関連があるとよかったなぁという点。でも若手教員が主人公だから、そこはおさえてあるのかな。他の教員でもよいからそういう場面があるとよかったなぁ。この小説には人間性でつらぬかれている。

 

一読して、よくぞこれをすすめてくれたなとおもった。

特に、行政と闘争する場面、行政のスタンスも批判的にかかれていて、これはするどいとおもった。

 

教員をめざすなら灰谷さんの小説をよもう、とすすめられた意味がわかった。

 

ちなみに、当時の時代背景をふまえて、リアルな世界がえがかれているところもいい。戦後の貧困、社会運動の仕方、夫(高度経済成長下の社会)と主人公(人間性)の乖離(「生き方がちがう」)、様々な時代背景がみえ、歴史的な史実をよんでいるような感覚にもなった。

 

次は太陽のこでもよんでみようかな。

 

たのしみ。

よきものだった平等性がスポーツを破壊するか。

たのスポの評価特集をよんだ

 

この号はとてもわかりやすくて、大事なことが記述されている。

 

学生と一緒によみすすめてきたが、あらたな発見がおおい。

 

それで、特集の中にテクノロジーとスポーツをかたる論考が2つある。

 

1つは陸上運動で、スターターとテクノロジーの発展、トラックの発展がかたられ、1つは柔道の審判とテクノロジーの発展についてまとめられていた。

 

いずれも審判とテクノロジーをあつかっており、陸上においては、スターターと選手との阿吽の呼吸があり、スターターはただの計測者ではなくて、選手のパフォーマンスを発揮する役割や失敗したときなどにきもちをなだめる役割があるなど、人間であるべきだ、という主張がなされている。

 

相撲などもをみても、審判の位置となる行司の方は、のこったのこったといきをいをつけ、力士たちの勝負をもりあげているようにもおもえる。

 

しかし、だれかのリズムにあうものは、だれかのリズムにはあわない。

 

だれかの呼吸にあうものは、だれかの呼吸にあわない。

 

となるとやはり、公平性や平等性という観点から、人間が審判を実施することには制約がでてくることになる。

 

このままでは、人間が審判をするこがなくなる。

 

やはりここは、テクノロジーとのつきあいかたが課題となる。

 

おそらく、スポーツの世界は、テクノロジーの発展とそのつきあい方の整理のバランスがわるく、テクノロジーの発展にルール設定やテクノロジーの活用をめぐる境界線の設定などがおいついていない。

 

一方で、どんどんテクノロジーは変化していくわけで、そのために、柔道のように、誤審や不正疑惑が増加してくることになる。

 

こうしてかんがえると、次のことがおもいついた。

 

スポーツが「近代」をまとって、自由・自主・自治の精神をルールやプレースタイルに内在化させ、階級差をこえて対等平等に競争するものとして生成してきたが、その平等性や公平性が今、スポーツの構造変容をせまろうとしている、もっと言うと、スポーツの存在意義にうたがいをかけようとしている。

 

一見、平等や対等という理念はスポーツにおいて重要だが、その平等や対等がテクノロジーの視点からみると、スポーツを内側から破壊する効力をももっていたのだ。

 

これは、ドーピングや八百長なんかよりももっと深刻な問題ではないだろうか。

 

「近代」化するスポーツは、後近代となり、稲垣さんたちがえがくものとは別の方向へとつきすすんでいる。

 

そんな発見をさせてくれた、たのスポでした。

新聞記事:教員半数過労死ライン

メモ

 

過労死ライン超えの教員、公立校で半数 仕事持ち帰りも:朝日新聞デジタル

 

管理署「早く退勤するように」(6割)

教員「仕事の量を減らしてから言ってほしい」(内、7割)

 

まったくそのとおり。

 

働き方改革から教員が取り残されている実態が浮き彫りになった」。

 

まったくそのとおり。

 

行政は、この慢性的で深刻な事態をうけとめなければならない。

 

もうみんな本当にいきぐるしく生活をしている。

かたわらでみているとこちらもつらくなることがおおい。

フットボールの歴史(メモ)

ちょっとフットボールの歴史の資料メモです。

 

The Complete History Of Football

https://www.youtube.com/watch?v=gij3guHfs3g

 

The Origins of Football

https://www.youtube.com/watch?v=ycsEQbac1Zg

※一番まとも?

 

サッカー誕生の歴史!サッカーの起源は中国?

https://www.youtube.com/watch?v=sG_LuiAvFYU&t=7s

 

ラグビーワールドカップ】ある少年の反則が伝説になった!ラグビーの起源

https://www.youtube.com/watch?v=WrgvXMu9RmM

 

世界がこれだけサッカーに熱狂するわけ

http://blogos.com/article/309620/

 

ラグビーは貴族のスポーツではありません

http://agora-web.jp/archives/1647474.html

 

 

 

無気力試合の情報まとめサイト

事実を整える

https://www.jijitsu.net/entry/japan-nishino-poland-fairplay

 

ラグビーとアメフト比較で使用した試合映像

https://www.youtube.com/watch?v=9BWqAZtnsIQ

https://www.youtube.com/watch?v=-OC6jCtuDbs

 

矢田部さんの本、その3

矢田部さんの本、4冊目、いよいよ。

 

『日本人の座り方』、よみすすめてみたら、

 

字幅もひろく、ストーリーも明確で、とてもよみやすいものであった。

 

そして何より、ある史実に驚嘆してしまった。

 

え!?そうなの!?

 

 「正座」って、明治期における近代日本の推進政策の一貫で、礼法教育の一部にあった坐法を、学校教育のおいて「ただしいすわり方」として普及させられたものだったの!?

 

という驚嘆であった。

 

 森によって、近代日本の身体へとつくりかえていったことは有名な話ではあるが、その1つに「正座」があったとはおどろきである。

 

 つまり、「正座」って、国の教育政策によって「おしつけられた」ものであって、けっして市民の中で伝統的に尊重されてきた坐法ではない、ということであった。

 

 まぢぃ〜。

 

 完全に、私の中の「正座」概念がくずれていく。

 たしかに「ただしいすわり方」だなんて、そんな坐法の名称が一般化するのは不自然である。坐法は多様にあるのに、「ただしい」だなんて、そんな分類法が一般化されるのは異様である。

 

 そして、明治政府による「正座」推進によって、おおくの多様な市民文化の中で醸成されてきた坐法が衰退してしまったこともまた、重要な史実であるとおもう。いわゆる「正座」はかつて「端坐」などとよばれるものであった。

 

 これを告発している矢田部さん、すごい。

 

 そして、この本は、2011年のものである。そんなに前から告発されていたなんて。

 

 矢田部さんのワークショップを教育民間研が共催で開催するのだが、これは必然であるとおもった。このワークショップを企画された方々の熱意は相当なものなのだろうなと実感した。

 

 日本での多様な坐法がどのように発生してきていたのか、なぜ日本人の伝統的な坐法として「正座」が位置づけられ、それが普及していったのかは、本書にゆずりたい。一応細くしておくと、「正座」の普及は、江戸時代の政策ともむすびついており、明治政府の推進政策を受容する環境整備が下地としてできあがっていたことはあげておく。

 

 いずれにしても、こうした史実をふまえると、学校教育にたずさわるものがいかに無自覚に政府によってつくられた「伝統」を教育内容としているのかにきづかされる。

 

 近代化がすすみ、戦後からいく時かへようとする今でも、かつての軍隊教育や西洋化政策などのなごりが学校教育の中にのこったままにされている。

 

 しかしそれによって、実は、教師が「文化の地崩れ現象」に一役かってしまっていることも意味している。

 

「「坐」の深層には、日本人の精神生活と社会生活とを根本のところで支えている役割が根づいていた。そう考えると、現代における床坐の衰退は、永い永い年月をかけて身体化された文化資本が大きく崩壊していく「文化の地崩れ現象」のように私には見える」

 

なるほど。

 

こうした現象をふまえると、前回も記述したが、あらためて、スポーツへと偏向していった学校体育をあらため、身体文化を基盤とした体育実践のカリキュラム化が課題になってくるとおもわれる。

 

 立・坐・歩の身体技法を学習を展開する道を模索していきたい。

 

 そのヒントとして、本書にも、現代にも必要な基本10の坐法が紹介されている。参考にしていきたい。

 

最後に、まとめの部分の引用をしておく。

 

 「端坐を正しい坐と定め、庶民一般に普及させたのは武士や軍人たちであった。かつての「つくばう」「かしこまる」という名称の通り、封建君主に対する服従を示す身体的な記号として、近世初期の武家儀礼からこの作法は広まりはじめる。明治期の学校教育によって「正座」という言葉が定着した背景にも、弓馬術の伝統を引く小笠原流礼法の強い牽引があり、その後の礼法教育は富国強兵を旨とする硬直した軍隊の思想へと絡め取られていくことになる。そこに見られる坐の思想は、日本文化の本来の姿からは大きく逸れ、たとえば中世の茶人が重んじた「崩しの自由」という美学などは遠く忘れ去られてゆく。くり返しになるが「近世以前の日本人は正座などしてはいなかった」。」

 

さて、4冊をよんで、矢田部さんの仕事の断片を理解したところで、

研究会の位置づけや案内を作成しよう。

 

これはおもしろいなぁ。

 

ぜひとも、矢田部さんの研究会とその後も、まなびになる機会にしたい。

 

とおもったら、もう1つ、文献をよみわすれていた。

 

ということで、『たの・スポ』2016、1・2月号をよんでみた。

 

矢田部さんの「体育坐りとはからだにとってどんな坐り方か」というタイトルの論考だ。

 

今度の研究会は、体育坐りを問い直すものとなるので、この論考はある意味、案内を作成する上ではメインの参考資料となる。

 

それで、早速、

 

>体育坐りとは、「体育の授業における「正しい坐り方」として「正坐化」しているといってまちがいでない」ものだと主張されている。

 

こちらも、竹内さんの著書や沢野さんの卒論をひもとき、集団行動の手引きの中で、昭和40年に「地面に腰を下ろして話を聞く姿勢」として体育坐りが提起され、普及していったことが契機となっていることが記述されている。

 

 いわゆる、規律的な行動訓練の手段として、位置づけられていったものだった。

 

 この体育坐りの問題性としては、どうも子どもたちを統制しようとする指導内容として教師が位置づけてしまっているかどうか、という点にありそうだ。

 

 つまり、体育坐りは、その姿勢を保持することができる時間は、5、6分程であり、「お腹の前に膝を抱え込む姿勢は、やはり長時間になると内臓を圧迫し続けることになるし、地面から坐骨にかかるストレスにかんしては如何ともしがたい」と「腹部や腰にかかる負担は大きい」、そのため、体格が大きい子にとっては決して楽な姿勢ではない。しかし、「膝や足首への負担を解放して坐るという意味では、体育坐りにも一定の利点がないわけではない」のである。

 

 また、体育坐りは、一般的には、「先生の話を聞くときに、席を移動しないことや、手あそびをしないこと、5分10分の間、動かないで自分の姿勢を保っていられること」ができ、指導内容として、そのこと自体が問題があるというわけではなさそうである。

 

 となると、この体育坐りを、長時間強制したり、この坐法のみを強制してしまうことが問題になってくる。すなわちそれは、教師が体育坐りを管理の手段としてのみその価値を把握してしまい、他の坐法や子どもたちの自然な坐り方への探求をすててしまうことが罪なことであり、矢田部さんがいう、「現場の教師一人一人が、自身の担う「自由」に対する責任を重く受け止めるべき(で)あるように思う」(括弧内は筆者)ということになる。

 

であるならば、私たちはどんな坐法を指導していくべきか、矢田部さんは論考の中でしっかりとその道筋をしめしている。

 

それは、それぞれの坐法のメリット・デメリットやそのメリット・デメリットがなりたつ身体的条件も加味しながら、坐法を指導していくこと、また、坐法を獲得するための身体能力を養っていくことを強調している。

 

この中身は、ぜみ本書をてにとってもらいたい。

 

立・坐・歩を系統的に学習させて、日常を生きる身体を耕す。これが体育の身体文化領域でもとめられる目標像なのかもしれない。

 

さて、ようやくこれで案内をまとめられそうだ。

 

ん〜〜〜幅がひろいなぁ。

 

 

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国立博物館で購入した。極小グソクムシの完成版。大変だった・・・。

東京の文化性のたかさを最近、実感する。

矢田部さんの本、その2

昨日、矢田部さんの本、『坐の文明論』につづいて、

『たたずまいの美学』をよんでみた。

 

さすがに連続で2冊目をよむと、疲労がたまる・・。

 

くるしみながらも、よみとばしながら、よんでしまった。

 

本書はどうも矢田部さんの原点となるような、博論を中心とする構成らしい。

 

そのため、矢田部さんは自身がよってたつ方法論についても解説しており、

 

分類論や現象記述についてをグーラン『身ぶりと言語』やマイネル『スポーツ運動学』を参照にしてきたことが提示されている。

 

なるほど、『坐の文明論』でも、『たたずまいの美学』でも同様の論法となっているこれらの背景がわかり、理解がすすんでよかった。

 

また、本書では『坐の文明論』であまりこまかく記述されなかった日本人と西洋人の歩き方の差異や、座り方の基本姿勢などが記述されており、その点、今の私の関心にひっかかってよかった。結局、自分の姿勢を改善したいという欲求がでてしまうのが集中できない要因となってしまっている。これは反省。最初に『メソッド』をよめばよかったかなぁ。。。

 

それで、この本を概観してみて、

 

1)坐法を分類ということは、多様な坐法を身体技術として客体化する1つの方法になっているのだな、という直感をえた。

 

つまり、学習の対象とするときに、「まちがった」坐法ということはないのではないか。それらはどこかで生活的な中で技法として形成され、また、それゆえに形成されなかったものである。だから、坐法それ自体は、一様に相対化されてかたられるべき事柄なのではないかとおもった。

 

また、こうして把握することで、学習内容としての坐法を把握していく道筋ができあがっていくとおもった。

 

矢田部さんが次によもうとする書籍『からだのメソッド』および『日本人の坐り方』でしめしている、多様な坐り方から、ヒントがえられそうである。

 

2)また、最後のところで、矢田部さんが身体技法の特性を4つにわけている。

こうした段階は、わかりやすくてとびつきやすいので、メモ

 

1)原初的身体技法

2)民族的身体技法

3)職業的身体技法

4)個人的身体技法

5)普遍的身体技法

 

これらの特性は、子どもたちのからだを分析する枠組みとしても機能するかもしれないとかんじた。子どもたちの生育環境の差異(畳かフローリングか)によるからだへの影響(民族的身体技法?)、何かの習い事や家での習慣からくるからだへの影響(個人的身体技法)、そしてそれらに影響されて日常動作としてのからだへの影響(原初的身体技法)。

 

子どもたちの発達のゆがみをかんがえる際に、何か活用できそうである。

 

しかし、頭がもうついていかない。

 

ひとまず休憩。

 

3)他には、①内観、②骨動作(骨でたつ)、③腰をいれる、というあたりの話がおもしろかった。こういう部分はわかりやすく説明してくれるので、すごいなぁとおもう。

 

また、②骨動作でおもいだしたのは、先日ヨガフェスタに参加した際に、他者に腕をまげられるのに抵抗しようとするとまげられてしまうが、腕が棒になっている、とおもうと他者にまげられない。というワークがあった。

 

これは、「脱力」がただ弛緩することだけではなくて、弛緩の中で、意識をおくことを学習するためのワークであった。というのも、腕が棒になっている、とおもうことで、実は肘の関節をのばす意識がはたらいていて、それでまがらない、というのである。実際にそうだった。

 

あぁ、これもある意味で、骨動作と関連してくることだなぁと想起していた。ただそれだけの話。授業でつかえるかなぁ。

 

ということで、次の本へ。。

 

さて、次の日になった。

 

『からだのメソッド』をよんでみた。

 

これは、ラッキー。

 

自分の姿勢をみなおすきっかけになった。

 

やっぱり、骨盤(仙骨)をたてることが重要なんだなぁ。

でも、これまでもそれはやっていた。

 

今回、これならやれるとおもったことは、

骨盤(仙骨)をたてるけれど、上体はリラックスさせる、ということである。

 

また、正座の仕方もなるほど、草坐をしって、やってみて、とても楽だった。

お経をよむ高校だったので、つらかったおもいでがあるのだが、

正座の仕方からしっかりと指導してほしいとつよくおもった。

 

やはり、すわるというのは身体技術なんだなと実感。

 

歩行時にもあきらかにちがう。

 

それで、この本のすごいところは、

ただ、そういう型を指南してくれるだけではなく、

その真髄が、自身の身体感覚をつかむことにあることで、

無理なく、自分の自然体を探求・維持していくことができる、という点にある。

 

解説の平山さんが見事にそれをいいあてている。

 

画期的な点は、「身体感覚を養うという方法をとっていること」だと。

 

これまでのからだの指南書とはことなる、まったくあたらしい内容だ。

 

それでいて、個々の身体にあう形で、自然なからだを保障していく。

 

ぜひよんでもらいたいとおもう。

 

本書で紹介されているワークや、食作法の文化なども、とても興味深い。

中でもなるほど、そうだな、と納得したのが、矢田部さんの演習をうけた学生の感想である。

 

「以前から「姿勢を良くしなくては」という意識はあったが、良い姿勢は疲れ、気が張り、一度正してもすぐに元の姿勢に戻ってしまった。…腰にストレスを与える「反り腰」の上体だったからだと思う。正しい姿勢は疲れるという強い思い込みがあった」

「なるべく背筋を伸ばすように心がけていた。けれど、長時間意識していると背中が痛くなってしまったり、腰が疲れてしまったり、肩が凝ってしまったりして、なかなか自分のからだをうまく操れないでいた。その頃のわたしにとっては姿勢が良い=「反り腰」の姿勢だと勘違いしていた」

 

矢田部さんもコメントしているが、学校教育で指導される姿勢とは直立不動の姿勢であり、緊張をしいられ、反り腰になるほどの不自然な曲線をつくらされ、「身体の自然」とは不一致なものである。

 

この問題性をどう把握するか。重要な課題であろう。矢田部さんが本書で紹介している立・坐・歩の姿勢を指導し、自然な形で動作ができるようにしてあげられたら、どれだけ子どもたちの発達にとってよい影響をもたらすのであろうか。

 

そのことを探求する学級指導や体育指導が探求される必要性をかんじる。

 

同時に、矢田部さんの文化研究は、子どもたちにもそのまま身体文化についての学習内容となるほどの体系性や構造的な特性を解明している。

 

この研究成果は、継続して学校教育の分野でもひきとる努力をしていくことがもとめられそうだ。

 

また、なるほどとおもったその他の点としては、「人に伝わる印象というのは、ビジュアル的な姿形よりも、その人が身体の内部にどのような感覚をもっているのか、ということの方がより強く伝わって、心の中に留まっていくことになります」という部分だ。

 

私たちは背筋がのびている状態の人をみると、そこから「きちんとしている」「気持ちが良い」「さわやか」という印象もうけとる。これは、対象となっている人の身体内観が表現として表出していることを意味しているであろう。人の立居振舞に情動がうごかされるのは、その人の身体内観の状態にうごかされているともいえる。

 

外見をみているのに、内観をみている、ということになる。これもおもしろいとおもった。

 

最後の身体と運動の論理の部分は、器械運動で導入するとおもしろそうというアイディアがみられた。早速、からだを大事にする実践家に、この本を紹介するメールをおくってみた。また議論していきたい。

 

さて、ようやく最後の1冊である。

 

ここまでよんで、3冊ともそれぞれの個性がしっかりとねられている。もちろんかぶるところはあるが、展開としては全く別物である。その構成だけをみても矢田部さんが良心的な方で探究心がつよい方だということがわかる。

 

最後の新書もたのしみである。

 

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鶴岡八幡宮、蓮。